とうとう、始まったか。
筆者はそんな思いで、英日曜紙「サンデー・タイムズ」(9月27日付)を眺めた。
「それにしても、ここまでやるとは…」。
というのも、「BBC(英国放送協会)の批判者が放送界のトップに」という見出しの記事が1面に掲載されていたからだ。ジョンソン保守党政権によるBBCに対する「全面戦争」(中面記事のBBC関係者の発言)の宣戦布告のように見えた。
BBCは、1920年代に開局以来、報道機関としてはライバルとなる新聞界、そしてその権力を監視するジャーナリズムを嫌う政治勢力によって、「敵」と見なされてきた。
保守系政治勢力は常にBBCの規模の大きさ(主要局の中では最大)や「左派寄りのジャーナリズム」を批判してきた。新聞界は政府から一切の資金を受け取っておらず、自力で経営を行っているのに対し、BBCはNHKの受信料制度のような「テレビ・ライセンス料」を視聴者から徴収することによって国内の活動を賄う。「何の苦労もせず、お金が入ってくる」ように見えてしまう。
1980年代、サッチャー政権(保守党)はBBCの活動の要となるテレビ・ライセンス料制度の瓦解とBBCの民放化を狙って独立調査委員会を立ち上げたが、委員会はBBCの民放化には賛成しない結論を出した。
昨年夏に発足した政権を率いるジョンソン首相は元保守系高級紙「デイリー・テレグラフ」の記者で、首相就任直前まで同紙のコラムニストだった。BBC縮小派の一人である。
しかし、保守勢力がBBCの規模を大幅縮小しようとしても、おいそれとはいかない。BBCは国王(現在はエリザベス女王)の特許状にもとづく公共事業体として設立されている。政府の傘下にはなく、国民の支持も厚い。
ただ、時の政権には少なくとも2つの「武器」がある。
1つは、テレビ・ライセンス料の値上げ率に影響を及ぼすことができる点だ。値上げ率はBBCとの交渉で決められるが、「緊縮財政中だから」と値上げを凍結することもできる(実際、過去数年間はそうだった)。
テレビ・ライセンス料制度自体をなくしてしまうことは政府の一任では実現できないが、BBCの報道に不満を持つ保守系政治勢力やメディアを通して、「ライセンス料は高すぎる」、「無駄に使われている」、「BBCのニュース報道は偏向している」などの見方を広め、「規模を縮小させるべき」、「ライセンス料をなくすべき」などの世論を作ることは可能だ。
もう1つはBBCの理事会(戦略、予算、公共放送としての役割を果たしているかなどに責任を持つ)の理事長を任命できることだ。任命は女王名となるが、政府閣僚の推薦を基にする。ちなみに、現在の理事長はイングランド銀行の元副頭取デービッド・クレメンツ氏である。今年2月に任期切れとなる。
放送・通信の監督規制組織のトップに保守系新聞の元編集長?
27日付のサンデー・タイムズ紙によると、ジョンソン首相はBBCの理事長にデイリー・テレグラフ紙の元編集長で、今はコラムニストのチャールズ・ムーア氏を、そして、放送・通信業の規制監督組織「オフコム」に、保守系大衆紙デイリー・メールの元編集幹部ポール・デーカ―氏を希望しているという。
前者は公募によって選ばれ、正式には週明けにも募集要項が発表される。オフコムの方は来月、公募予定。いずれの場合も「政府が一押しの人物」は有力と受け止められる。
ムーア氏とデーカー氏の任命は公共放送BBC及びその支持者にとってはとんでもない話だ。
まず、2人とも新聞界の出身である。新聞界はBBCをライバル視する存在であることを先に説明した。
それ以上に問題なのは、どちらも「BBC、憎し」では互いに勝るとも劣らない人物なのだ。
ムーア氏がデイリー・テレグラフの編集長だった時代、部下のジャーナリストの1人だったのが、ジョンソン首相だ。ムーア氏は昨年、テレグラフ時代の功績やサッチャー元首相の自伝を書いたことへの貢献として、貴族の称号を得ている。女王が授ける形を取るものの、実際には時の首相が誰が称号を得るかを決める。となると、今回の意向は「お友達人事」にも見えてくる。
ムーア氏は左寄りと見なすBBCのジャーナリズムを嫌い、テレビ・ライセンス料の支払いを拒否して罰金を払ったこともある(2010年)。
一方のデーカー氏は26年間、デイリー・メール紙の編集長だった(2018年、退任)。メール紙は感情に強く訴えかけるキャンペーン運動、反移民報道、英国の欧州連合(EU)からの離脱(「ブレグジット」)支持で知られる。右派を代表するメディア人といえよう。
デーカー氏を「フリート街(英新聞界の別称)で最も偉大な編集長」と評する人もいるが、左派リベラル系勢力には嫌われてきた。ブレア労働党政権(1997-2007年)で官邸戦略局長だったアラステア・キャンベル氏はデーカー氏を「真実を捻じ曲げる、偽善者」と呼んでいる。
デーカー氏はBBCのスタッフは「お金が木になると思っている」(テレビ・ライセンス料が入るので、お金のことは気にしなくていい、という意味)、「国民の意見を反映していない」と述べ、常に反BBCの姿勢をあらわにしてきた。
ムーア氏もデーカー氏もブレグジット派で、BBCのブレグジット報道が「離脱に敵対的」、「左派的過ぎる」と批判することをためらわなかった。
右往左往するBBCが反対勢力に口実を与える
しかし、ムーア氏やデーカー氏がもし任命された場合、「良いことだ」という人も少なくない。
ここ数年、BBCが様々な失態を表面化させているからだ。BBCの報道の「偏向」を何とかしなければならない、もっとしっかり経営するべき、テレビ・ライセンス料はなくしたほうが良いなどと思わせてしまうような事態を次々と発生させてしまった。
具体例を挙げてみる。
(1)2017年から公表されている、BBCで働くスターや司会者たちの高額報酬のリスト問題。
ほかの放送局はこうしたリストを公表していないが、テレビ・ライセンス料を得て活動している公的組織であることから、報酬リストの公表に追い込まれた。
びっくりしたのが金額の高額さ(BBC経営陣によれば、民放より低いとは言うが)だった。また、男女間の報酬に大きな差があった。リストの中にあった高額報酬を受けた人の3分の2が男性だった。また、トップの男性の報酬とトップの女性の報酬との間には大きな開きがあった。
中国版編集長の女性キャリー・グレイシー氏は、ほかの同等の仕事をする男性たちと自分の給与との差があまりにも大きすぎたことを問題視。最終的に、BBCはグレイシー氏に謝罪し、不足分の支払いをすることになった。
(2)人種差別発言で右往左往
昨年9月、BBCは、ある情報番組の司会者が人種差別問題を巡って「不偏不党の編集指針を逸脱した」と結論付けた。しかし、非難が相次ぐと、判断を撤回した。
(3)不偏不党が守られていない?
どこまでが不偏不党なのか?BBCのジャーナリストは分かっているはずだが、今年5月26日、報道番組「ニューズナイト」の中で、司会者が官邸のアドバイザーが新型コロナウイルス感染防止のための「自宅待機」のルールを破ったと決めつけるような口調で紹介。翌日、BBCは発言がBBCの公平中立基準を満たしていなかったと発表する羽目になった。
9月から経営陣トップとなったティム・デービー氏はスタッフに対し、不偏不党を逸脱するような発言は許されないと就任演説で述べている。
(4)音楽祭「プロムズ」問題でも、右往左往
これで一応、嵐が収まったように思えたが、夏になって、反人種差別運動「ブラック・ライブズ・マター」の盛り上がりで、BBCが主催する夏の音楽祭「プロムズ」の最終日、愛国心あふれる歌の歌詞を放送しないことをBBCが考えている、とサンデー・タイムズ紙が報道した。
歌の1つ(「ルール・ブリタニア」)には、「英国民は断じて、断じて、断じて奴隷にはならない」という歌詞があった。
「ブラック・ライブズ・マター」運動に配慮して、「奴隷」という言葉が入った歌を歌わせない…これぞまさに、保守勢力が言うところの「左寄り報道のBBC」がやりそうなことであった。
しかし、実は、調べてみると、BBCが歌詞の停止を「ブラック・ライブズ・マター」運動のために計画していたのかどうかは、定かではなかった。しかし、あっという間にまるで事実であるかのように話が広がってしまった。BBCは歌詞を放送したが、「政治圧力によって前言を翻した」と受け止められてしまった。
(5)ユーチューブを好む若者たち、ネットフリックスの人気
ネット時代になって、人々は動画コンテンツをユーチューブや有料サービス「ネットフリックス」で楽しむようになった。
メディア変化の構造的な問題だが、若者層の支持を十分に集めきれていないのが今のBBCだ。「だから、BBCの番組を見たい人だけが契約料を毎月払って視聴するようにすればいいのだ」、「テレビ・ライセンス制度なんか、なくしてしまえ」という際の口実になるのである。
さて、本当にムーア氏やデーカー氏が報道された職に就くことになるのかどうかは、わからない。
例え噂だけだったとしても、「いざとなったら、反BBCの論客を任命できるぞ」という脅しにはなったと言える。
BBCの将来がどうなるにせよ、あえて反BBCで知られる人物をBBCの理事長職や放送業界の監督役に就任させるというのは、政治勢力による反BBC政策と解釈されても仕方ないと思うのは、筆者だけではないだろう。
BBCには編集権の独立が約束されているが、この「最後の砦」が崩されることがないよう、しっかりと見ていきたいと思っている。
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公益のためのジャーナリズム 「国営」ではない英BBCが目指すもの その歴史と現在とは(2018年11月28日)
編集部より;この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2020年9月30日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。