過ちて改めざる、是れを過ちと謂う

『論語』の「雍也第六の三」に、「弟子(ていし)、孰(だれ)か学を好むと為す・・・お弟子さんの中で誰が学問好きですか?」という魯の哀公の質問に対し、孔子が「顔回なる者あり、学を好む。怒りを遷(うつ)さず、過ちを弐(ふたた)びせず・・・顔回と言う者が学問好きで、人に八つ当たりせず、同じ過ちを犯すことはありませんでした」と答える一節があります。

孔子は顔回の「学を好む」部分だけではなく、わざわざ「過ちを弐びせず」という部分も褒めて言っているわけです。孔子も、それを非常に立派な行為として見ていたのだろうと思います。此の顔回というのは、元気であれば孔子の後を継いだ人間で、孔子の言が正に天の言と思って生きてきた人物です。

「既に吾が才を竭(つ)くす。立つ所ありて卓爾(たくじ)たるが如し。これに従わんと欲すと雖(いえど)も、由(よし)なきのみ」(子罕第九の十一)とは顔回が嘆息して発した言葉ですが、顔回が前に進んでも孔子は常々更に先に行っている、というように孔子に心から私淑してきました。

『論語』の「為政第二の九」に、孔子が顔回を評した次の面白いがあります――吾(われ)回と言うこと終日、違(たが)わざること愚なるが如し。退きて其の私(し)を省(み)れば、亦(また)以て発するに足れり。回や愚ならず・・・顔回と一日中話をしていても、なんでも「はいはい、はいはい」というばかりで、一切反論しない。その様子はまるで愚か者のようだ。しかし、顔回の普段の様子を見ていると、私の言葉をしっかり守って実行している。そういうのを見ると、顔回は愚かじゃないな。

孔子自身も言っているように、決して同じ過ちを犯さなかった顔回は普通の人間ではないのでしょう。しかし我々普通の人間は、ごく普通に過つものです。そしてまた、それを繰り返すことも、ごく普通にあります。我々は、その繰り返しを出来るだけ減らして行くということに、努めねばなりません。

では如何にしてそれを減じて行くかと言えば、先ず己の言動が間違いであるということを、深く認識せねばなりません。次にそれを改めるべく、具体的なアクションが求められます。簡単に忘れぬようメモをし、毎日それを見る。それを壁に貼るのも結構で、毎日読み上げる――一度深く認識したつもりでも二度三度四度と繰り返し、出来得る限り同じように過たぬようにして行くのです。

は常日頃、自分自身にも社員に対しても「過ちは過ちと認めて、過ちを二度と繰り返さないように」と言い聞かせています。過ちは誰でもするものですから、過つことは仕方がありません。但し、過った後の行動がどうなのかが問題になります。「小人の過つや、必ず文(かざ)る」(子張第十九の八)というように、とかく小人は自分が過った場合それを素直に認めずに、人のせいにしたり、あれこれと言い訳をしたりするものです。

そうではなくて「君子は諸(これ)を己に求め」(衛霊公第十五の二十一)、繰り返し過たぬよう細心の注意を払うことが大事であって、それを改めようとしないのが本当の過ちであります。「過ちて改めざる、是(こ)れを過ちと謂(い)う」(衛霊公第十五の三十)わけで、君子たる者「過てば則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」(学而第一の八)という姿勢を持たなければならないのです。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年10月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。