独立性は手段に過ぎない
日本学術会議法第二条に「日本学術会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする。」と規定されており、巷で言われる日本学術会議(以下、学術会議という。)の独立性とはこの目的を達成するための手段に過ぎない。
現在、菅首相による一部推薦者に対する会員への「任命拒否」が批判されているが、意外にも世論の反応は冷静、少なくとも激烈ではないようにみえる。
世論も「任命拒否」批判が「木を見て森を見ず」と感じているのではないか。
よく話題になる学術会議による「軍事研究の禁止」の声明も同会議の独立性が法で規定された目的ではなく特定イデオロギーのために利用された結果と感じる者も多いのではないか。
学術会議の独立性が手段に過ぎないことは強調されてよい。
学術会議について語る者は独立性が目的達成のための手段であることを意識すべきである。
しかし学者の多数派、朝日新聞を始めとする左派マスコミ、野党にその意識はなく「学問の自由」への侵害を叫び独立性を強調するばかりである。表現も「任命拒否を認めたら大変なことになるぞ!」と脅すようなニュアンスのものが多い。
彼(女)ら叫ぶ独立性とは学者という特定職業のための独立であり、そこに主権者たる国民の姿はない。特権の要求と言われても仕方あるまい。もっと冷静になるべきだ。
今回の騒動で筆者が特に偏向を感じるのは左派マスコミと日本共産党である。普段、得意になって「権力を監視するのがジャーナリズムである」とか「権力を制限するのが立憲主義である」と語るマスコミ、政党がここぞとばかりに学術会議という権力に迎合しているのである。
もっとも日本共産党の場合、迎合というよりも自分の勢力圏が攻撃されたと感じているのかもしれない。この騒動における日本共産党の反応は突出している。
今回の騒動の「収穫」の一つとして左派マスコミ、日本共産党のエリート主義が確認できたことである。
多数派を形成できない勢力は公的機関の一部局、もしくは公的機関の支援で成立する団体(大学、芸術団体等)を影響下におき、そこを拠点に多数派を攻撃するのである。
学術会議の騒動では「左派の戦術」が学べる。