菅新内閣は、「行政の縦割りや前例主義を打破し、既得権益にとらわれることなく規制改革を全力で進める」ことを表明し、国民から60%を超える高い支持を得た。その「前例主義の打破」が、1日に公表された日本学術会議(以下、同会議)の会員人事で早々に披露された。
同会議のサイト「令和2年10月の日本学術会議会員・連携会員の半数改選に向けて」には、10月1日発令に向けて、会員210名と連携会員約2000名の半数の改選を1月半ばから行い、現会員が2月7日までに推薦し、学術会議が選考後、7月の臨時総会で承認する、とある。
ところが、「105人の推薦者を8月31日に内閣府に提出」したところ、「9月28日夜に、任命しない理由を言わずに6人を推薦名簿から外して」き、山極寿一前同会議会長は「日本学術会議法第7条で『推薦に基づき』とあるのは重い規定。任命拒否は日本学術会議の歴史になかった」と述べた(しんぶん赤旗)。
6名は、小沢隆一慈恵医大(憲法学)、岡田正則早大(行政法学)、松宮孝明立命館大(刑事法学)、加藤陽子東大(歴史学)、芦名定道京大(キリスト教学)、宇野重規東大(政治学)の各教授であり、「多くが安保法制や共謀罪、沖縄の新基地建設などに反対を表明しています」とも報じた。
朝日新聞も1日、「任命は首相が行うが、同会議が推薦した候補者が任命されなかったのは初めて。任命されなかった学者からは『学問の自由への乱暴な介入だ』と批判が出ている」と報じた。多くのメディアも、同会議も、そして野党も、批判する側の趣旨はほぼこれと同様だ。
一方の総理は2日、記者団に「法に基づいて適切に対応した結果だ」と、官房長官が会見で述べた内容を、官邸を出る際に繰り返した。
以上から筆者は、①日本学術会議とは如何なる存在か ②法律はどうなっている? ③推薦候補が初めて任命されなかったことの意味 ④学問の自由への介入か? といったポイントから本件について考えてみたい。
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同会議について国民が知っていることの一つに、「軍事的安全保障研究に関する声明」(以下、同声明)で、大学等の研究機関での軍事的安全保障研究を縛っていることがある。多くの研究機関が「軍事研究は行わない」方針を表明し、逸脱すればすぐ「市民・研究者」などから質問状や抗議が来る。
同会議は、大学等研究機関や学協会(学者・研究者たちが互いの連絡,知識や情報の交換,研究成果の発表のために組織した団体の総称)が、17年3月の同声明をどのように受けとめているかフォローアップする目的でアンケート調査を行った。その結果が8月4日の同会議サイトに載っている。
同会議は、創設翌年の50年に「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」をし、67年には同文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を出した。背景に「科学者コミュニティの戦争協力への反省と再び同様の事態が生じることへの懸念があった」とする。
17年の「声明」は、「大学等研究機関における軍事的安全保障研究が、学問の自由及び学術の健全な発展と緊張関係にあることを確認し、上記2つの声明を継承する基本的立場を明らかにした」とする。「緊張関係にある」とは前者が後者を妨げているということか。
大学等への調査は18 年2月に、全国の国公私立大学、大学共同利用機関、国立研究開発法人、民間研究機関など183に行い、135から回答を得た(回収率73.8%)。20年1月に行った登録学協会2,037からは、379から回答が得られた(同18.6%)。
大学等の回答の自由回答欄から「いくつかの課題も浮かび上がった」とし、「声明には現実と乖離している点があると感じる」や「資金が防衛装備庁の『安全保障技術研究推進制度』であっても、研究の目的や成果が社会や平和への貢献であるならば、問題はないと考える」との意見を挙げる。
また、「研究には、平和目的にも軍事目的にも利用され得る両義性が本質的に存在する。・・研究は本来自由なものであるという原則にも反する」、「教員の自由意志により実施される研究は、つねに自己責任において実施されなければならない」等の意見があった。筆者にはどれももっともな意見に思える。
学協会への調査は、「回答した学協会が決して多くはなかった」とし、「直接の利害関係を有するがゆえに簡単には回答できないという学協会があったと推測される」として、「結果の解釈に際しては、この点を慎重に考慮する必要がある」とまとめている。
その自由回答には「学会報告や論文投稿で、直接に軍事との関連を冠したものはまれで、多くはより一般的な発見や成果として報告される。軍事的安全保障研究であるか否かの線引きは困難であり、学協会としてこのような研究テーマを規制することは不可能であると同時に、適切でもなく、それは自由な学問や科学の発展を阻害すると考えられる」との意見がある。
これらに書かれていることは、多くの国民が同声明に対してごく普通に懐く疑問でもあるように筆者には思える。つまり「同声明は現実と乖離している」し、そんな声明を出す同会議も浮世離れしている。日本学術会議にはこういった一面がある。
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今回の人事を総理が「法に基づいて適切に対応した結果」と述べる「法」とは、48年7月の法律「日本学術会議法」だ。第一条に「2 日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする」とある。また先の推薦要綱にも、7月の臨時総会承認後、10月1日の発令まで「人事上の諸手続き」とあり、「所轄する総理」によって当然なされるべき手続きを指す。
前会長やメディアや野党は、「任命拒否は学術会議の歴史になかったこと」と批判する。が、「前例主義の打破」は菅内閣の政策の柱の一つだ。総理としては、前例に囚われず、同会議の寄って立つ設立法に基づいて、それを所轄する立場で責任を果たしたということだ。
「学問の自由への介入」については、調査の自由回答にあるように、同会議自体が同声明によって「自由な学問や科学の発展を阻害」している。まして、同会議の会員でないからと言って、6名の教授方の研究の自由が奪われたり、言論空間を閉ざされたりする訳でもない。
先の推薦要綱には、同会議の内規第6条の規定に基づき「会員としてふさわしい『優れた研究又は業績がある科学者』の推薦をお願いいたします」とある。が、総理は6名をそうはお考えにならなかったということだ。
そもそも人事の理由など「訊ねる」(問い質す)などということは、社会人として「はしたなく非常識」と筆者は思う。いくら訊いたところで言うはずないし、また言うべきことでもない。企業で昇進できなかった者を上司が励ますのとは訳が違う。
城山三郎に「粗に野にしてやだが卑ではない」がある。主人公の石田礼助が「私は老人のワッペンとしか思っていない」といって叙勲を辞退する話が出てくる。学術会議の会員になることと叙勲を一緒にする訳ではないが、会員でなくとも野に在って優れた業績を上げ、総理を見返せば良い。