マスクは令和の“ちょんまげ”、“お歯黒”になるか --- 中村 哲也

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丁髷(ちょんまげ)やお歯黒は、明治維新、文明開化を挟み、それまでの常識から、常識でなくなったものの一つである。今、我々の目の前に丁髷の人が現れれば、とても奇異なものだが、江戸時代の人にとっては、ごく当たり前なものであった。

丁髷には、元来、機能的な意味があった。戦国武士が戦の際、兜で頭が蒸れないための髪型に由来するとされ、時を経て、太平の世において、町民の髪型としても定着したようだ。

すなわち、丁髷は、意味を持たなくとも、皆がしているから自分もするという風習であった。そして、この根強い風習を改めるためには、新政府による断髪令という強い圧力が必要であった。

ネクタイに思い入れのある方には申し訳ないが、私は、若い頃よりネクタイが大嫌いで、「昭和の丁髷」と呼んでいた。細い布を首に巻いてぶらさげることは、私にとって、髪を結って頭の上に乗せる行為とさして違わないものであった。

そんな私でも、仕事の際は、夏でもネクタイを着用していた。理由は、ただ一つ。着用していないと周りから警戒されるからである。

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居酒屋談議で、なぜ皆ネクタイをするのかを話題にしても、上司や同僚からは「常識だ」、「普通でしょ」、「当たり前だろ」という答しか返ってこなかった。

平成に入り、クールビズが始まり、平成の終わり頃にはようやく、夏場において、ネクタイは、「常識」、「普通」、「当たり前」でなくなった。

夏場のネクタイは、皆がしているから自分もするという風習であったことが証明され、やはり「昭和の丁髷」だったと私は一人合点している。クールビズは、平成の断髪令だ。

ネクタイも、元来は、意味があり、首周りを飾る多様な形態の装飾から現在の形に収束したようである。首周りを装飾したくなることは、ファッションに疎い私でも理解できる。

しかし、今のネクタイは、形態に自由度はなく、装飾としては、色や柄、生地、幅、結び方など、極めて限定された範囲でしか楽しまれていない。

ネクタイをお洒落アイテムとして楽しんでいる方には申し訳ないが、自由自在楽しんでいるようでも、布としての形はほぼ同じなのは、孫悟空が自由自在に飛び回るが、実はお釈迦様の手のひらの上であった逸話と重なる。

令和時代になり、夏場のネクタイの呪縛は無くなったが、新型コロナウィルスのため、今度はマスクをすることが常識となった。マスクの機能的な意味については、多くのことが語られているので、ここで繰り返す必要はないだろう。

ただ、その前提である新型コロナウィルスを巡る状況は、当初のセンセーショナルなものから、随分と落ち着きつつある。マスクのデメリットについても、幼少期には、多様なウィルスや細菌にさらされることで免疫機能が強化されるため、マスクを使うべきでないという考え方なども紹介されだしている。

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新型コロナウィルスの危険性については、様々なデータが蓄積、分析されつつあり、今後、当初よりも、正確な評価がなされることであろう。

指定感染症は、感染症法第7条で、1年以内の政令で定める期間に限られたもので、特に必要であると認められる場合にのみもう1年延長できることから、遅くとも、再来年の1月までには、どの類型に近いのかがオーソライズされると思われる。

この過程で、以下は、仮の話だが、季節性インフルエンザの危険性と大きな差がないということが、公式見解となったとして、日本では、マスクの利用に関して、新型コロナ以前のように戻るだろうか。

新型コロナに恐怖感を覚えた人たちの意識を変えるのは困難で、こうした人が、「マスク警察」になるだろう。
夏場のネクタイがそうであったように、多くの人は、本当はやめたいのに、皆がしているからするという状況になるのではないだろうか。就活生の画一的なリクルートスーツのように、周りと同調することが無難という行動原理が働き、皆が無難にマスクをすることになるのではないだろうか。

何年か後、欧米などではマスクをしないことが常識となっているにも関わらず、日本では相変わらず皆がマスクをしている状況が生じるように思える。

かくして、マスクは令和の丁髷、お歯黒になるのだろうか。

中村 哲也   団体職員(建設分野)