私は先の小論(「迷惑な学者の「正義」の押し売り」)で、菅政権応援団のような印象を与えたかもしれない。そのように受け取られても、それはそれで仕方がない。文書は著者の手を離れた時点で、読者の解釈に委ねられ、書き手の意図を飛び越えてしまうことは間々あることだ。
しかしながら、私は任命拒否を「アッパレ、菅さん」などと称賛しているのでは毛頭ない。
高邁な学者の過剰なまでの正義感ゆえの暴走に呆れる一方で、私はこうしたことをシレッとやってしまう菅政権にも空恐ろしさを感じる。何か言葉にならないイヤーな感じと言っても良いかもしれない。経済学者の小幡績・慶應大学准教授は、任命拒否問題を携帯料金引き下げとともに分析し、資本主義の健全な発展を阻害する中国共産党のようなやり方だと痛烈に批判している。
私は子どもの頃から空想するの好きだ。その空想は大体が実現しそうもない、荒唐無稽な事柄である。だから、空想というより妄想だ。今回の任命拒否問題でも、ついつい妄想を逞しくして、余計な心配をしてしまうのである。小幡さんのご高論が経済学に基礎づけれれた論証であるのに対し、拙稿は学説はおろか根拠もない代物である。ゆえに、妄想なのだ。
政権による6名の候補者の任命拒否は、学問の自由の侵害には当たらないと思う。候補者の方々が侵害されたのは、あえて言えば自由な研究によって生じた自らの学術的意見を述べる機会である。しかも、学者には学会、学術誌、授業等々実に様ざまな成果発表の機会があり、これらこそが学者にとっての本業であり、本命だ。本業が侵犯されるようなことがあれば、それは許し難い学問の自由の侵害である。
私は、任命拒否は権力の濫用だと考える。6人の方々はいずれも安保法制や検察法改正案の反対に深く関わり、何かと前政権に盾をついてきた。現政権が「この際、こうした小賢しい学者には遠慮してもらおう。当会議は政府の監督下にある諮問機関であり、年間10億の予算が計上されているので、法的にも根拠があり、何よりも国民の理解も得られに違いない」と考えたことは想像に難くない。
意趣返し、イジメられた仕返しだ、という印象は、多くの人が感じることなので、おそらく私の妄想ではない、と思う。ところが、私の妄想は、このリベンジという行為に隠れたメッセージを読み取ってしまうのである。「政権に楯を突くと、不利益を被る可能性がある」という相手に警戒心を抱かせる隠喩だ。事実、映画監督や脚本家といった想像力豊かな仕事に携わるグループがいち早く「表現の自由への挑戦」だとする声明を出したのも、政権が発している可能性のあるメッセージを感じ取ったからでだろう。
成熟した民主主義国家――日本も無論その一つだ――において、国民が剥き出しの公権力で抑圧されることはまずない。成熟国家の権力行使は真綿で首を絞めるように、巧妙かつ狡猾だ。6人の候補者はいずれも大学教授で、社会的地位があり、経済的にも安定している。しかも、この一件により、メディアの寵児となって、知名度を上げ、経済的にも潤ったかもしれない(失礼、私の妄想です!)方もおられる。
しかしながら、芸術や文化に従事する人びとは経済的に不安定であり、優れた作品を発表する上で、政府の支援は欠かせない。そして、何よりも芸術・文化の社会的影響力は、6人の方々の学問領域の何十倍、何百倍もある。仮にも政権がこの一件に「ノイズを取り除く」という隠喩を込めたのであるならば、効果はテキメンだ。私の被害妄想に過ぎないことを願うばかりだ。
それでもなお、狭量な私は、政府に任命拒否を撤回して、6人の候補者を任命するように嘆願などしない。というのも、これらの方々の憲法や安全保障をめぐる見解には賛成できないからだ。学術会議の人文・社会科学領域の委員には学説の面で多様性を求めたい。憲法学や政治学に限れば、立憲デモクラシーの会のメンバーやシンパで固めないでもらいたい。
それはさておき、私にとってより重要なのは、政府がこのさきどのように権力を効果的に使おうとするのか、菅政権の権力の使い方であって、任命を拒否された学者ではない。