一番最初に謝る人は、一番勇気がある人。一番最初に許す人は、一番強い人。一番最初に忘れる人は、一番幸せな人。…The first to apologize is the bravest, the first to forgive is the strongest, and the first to forget is the happiest.--之は、今年6月にリツイートしたものです。誰がどういうつもりで残した言葉かは知りませんが、本ブログで以下に私が思うところを簡潔に申し上げたいと思います。
先ず「一番最初に謝る人は、一番勇気がある人」。謝るとは自分の非を認めるということですから、ある面で勇気も必要です。もっと言えば非を認めるとは、自分の一部を否定するということであります。その自己否定の結果、謝る対象者に対して尊敬する心を持つとか恥じ入る心を持つといった、謝るために必要な様々な心の動きというものがあるはずです。その心の動きを持つということは、ある意味勇気があることかもしれません。
明治・大正・昭和と生き抜いた知の巨人である森信三先生も、『修身教授録』の中で「師説を吸収せんとせば、すべからくまず自らを空しうするを要す。これ即ち敬なり。故に敬はまた力なり」と述べておられます。誰かに非常に傾倒しその人から長所を出来るだけ取り入れようとする、言ってみれば、その人に感じる「敬」の気持ちに対しその対極にある「恥」の気持ちを抱く中で自分をある意味否定して行く、ということであります。
次に「一番最初に許す人は、一番強い人」。王陽明の言葉「天下の事、万変と雖(いえど)も吾が之に応ずる所以(ゆえん)は喜怒哀楽の四者を出でず」の中にも「怒」が含まれているように、怒りという感情を何らかの形で持った動物として天は我々人間を創りたもうたのです。従って之を治すは、至難の業なのだろうと思います。但し顔回の如く修養を積むことで、少なくとも激怒しても「怒りを遷さず」(『論語』雍也第六)、許す位の包容力は持てるのかもしれません。
包容力というのは、そういう強さから出てくる部分があるのも確かだと思います。私は、「仁(じん)」の思想の原点に「恕(じょ)」があると考えています。恕とは他人に対する誠実さであり、如(ごと)しに心と書くように「我が心の如く」相手を思うということです。之は、慈愛の情・仁愛の心・惻隠(そくいん)の情と言い換えても良いでしょう。相手の動機や行為等々を理解し受け入れて許す寛大な心を持たなければならないと思います。このような心を持つには、自分を律する強い心が必要なのです。
そして最後に「一番最初に忘れる人は、一番幸せな人」。此の部分については全く以て同意出来ません。之は一言で言うと、極楽蜻蛉(ごくらくとんぼ…楽天的でのんきそうな者をあざけったりからかったりしていう語)の類ではないでしょうか。
編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年10月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。