特に、力を入れたのは、幕末にあった城すべてと、私が独自に選んだ100名城を1枚のカラー大型地図に図示し、ついでに歴史的価値や観光地としての魅力などで採点などもしたことだ。
もうひとつは、関ケ原の戦いから廃藩置県までに存在した約600藩をすべて1枚の大型カラー地図に落とし込んだことだ。これは出版界で初めてではないか。
江戸幕府は、将軍を頂点にして、各地に配置された大名を統制する体制をとっていた。江戸時代における大名とは、石高1万石以上の領地を与えられた者をいい、将軍直属の家臣である。領地をもち、参勤交代を義務づけられているが、石高が1万石以下の者は、交代寄合(こうたいよりあい)といわれる特殊な旗本もいた。大名のことを「諸侯(しょこう)」と呼ぶこともあった。
大名は領地をもち、ある程度の権限を与えられて領内を支配した。大名が支配した領地を江戸時代には、会津藩なら松平肥後守御領知といったようにいっていたが、儒学者が古代中国風に「藩(はん)」ということがあり、これが、明治2年(1869年)の版籍奉還後に正式名称となった。
つまり、廃藩置県とは、明治2年に新設された藩を明治4年(1871年)に政府直轄地だったところと同じように県に置き換えたことを指すのだが、普通には江戸時代の大名領も遡って藩と呼んでいる。
慶長20年(1615年)、徳川家康により一国一城令が制定され、大名の居城をひとつに限定した。そのため、各藩には城ないし簡易な陣屋がひとつあるだけだった(例外はある)。
幕府いわば、江戸藩として全国の4分の1を支配する一方、各地方の藩に地方の支配をかなり自由に任せ、一方で中央政府として統制する政治体制を「幕藩(ばくはん)体制」という。藩の経営は苦しかったが、幕末には改革に成功するところが多くなり、そのうちの薩長土肥などが統幕勢力として台頭した。
藩は取り潰しなどで廃藩とされたり分家や取り立ててで新しい藩ができることもあったので、藩の数は江戸時代を通じて増減があり、大政奉還で江戸幕府が崩壊したときに存在した藩は271藩(短期間だけ大名だった船形藩を含めて)で、大政奉還後に御三家の付家老5家など14家が藩として認められた。さらに、徳川御三卿(田安・一橋・清水)も独立大名となったので、すべて合わすと286家が幕末維新のときの大名だ。
ただし、この期間のうちに、自主廃藩してしまった大名もいる。たとえば、盛岡藩は廃藩置県のときにはなかったので、同時に286すべてがそろったことはない。
お城のベスト100は出版社の要望で順位もつけた。いちおう観光地としての現状の魅力の順位だが、①姫路城、②彦根城、③熊本城、④大阪城、⑤二条城…であるが、これは、また、改めて紹介したい。