日本一の藩校はどこか ~ 藩校の基礎知識

八幡 和郎

江戸三百藩の通知表」(宝島社)のなかでさまざまな観点からの各藩の評価をしているのだが、藩校についても取り上げている。そこで、藩校について知られざる実態とか、現代の高校や大学で藩校の伝統を受け継いだものがあるかを少し紹介したい。

会津藩の藩校「日新館」(写真AC

江戸時代の武士は、学問があって教養人だったという誤解があるがとんでもない。科挙が存在した中国や韓国に比べて学問をすることを求められずその機会もなかった。

幕藩体制が確立し、江戸初期の分断政治が文治政治へと変化すると、自然支配層である武士には教養が求められたが私塾程度のものに頼っていた。

例外は、寛文9(1669)年に設立された閑谷校(岡山)くらいだ。しかし、江戸後期になると各藩は藩校を作り始めた。中国に学校というものがあるという情報くらいは入ってくるし、民間の塾でかなり成功をおさめるものも出てきていたから当然だろう。

その意味で先駆的だったのは、熊本藩が1755年に設立した時習館であって。これは全国の藩校(藩という言葉は明治になって公式に使われ始めた言葉なので藩校も明治以降に成ってからの呼称だが)の模範とされた。上級武士以外にも門戸を拡げ、かなりの優れものだった。

幕末の日本一は佐賀弘道館

これをきっかけに、藩校の設立が相次いだが、これが主要な藩に行き渡ったのは、天保のころ天保の頃(1830~45年)、つまりペリーがやってくるほんの少し前だ。しかし、対象は上級武士に限られることが多かった。

また、義務化したところは少なかった。そのあたり、義務化をすすめた珍しい存在のひとつが鍋島直正が力を入れた佐賀藩で、幕末には弘道館が最高の藩校と言われ、岩倉具視はその評判を聞いて息子たちを留学させたほどだ。

佐賀藩の藩校「弘道館」で使用された教科書(佐賀県HPより引用)

しかし、藩校で教えているのは、ほぼ、漢学だけだった。それもほとんどは朱子学である。国学はもちろん、自然科学も教えなかった。なにしろ、時習館ですら、細川重賢は算盤を置かせなかった。勘定など武士はしてはならないというのである。

だから、江戸時代の武士は四則計算もろくにできないのが多かった。これでは官僚としても、軍人としても役に立たない。それでは、誰がそれをしたかといえば、勘定方のような世襲の専門集団であり、だからこそ、勘定方の子だった福沢諭吉は藩校に入っていない。

ほかに、儒者、藩医、兵法、砲術などの専門家集団がおり、それが、上級武士よりよほど明治になって活躍することになる。

ただ、高度な読み書きができるようになるということと、中国史の知識を得ること、論理的な思考といったことは、洋学を始めるに当たって意味がなかったわけではない。

いずれにせよ、藩校はそんなものだから、明治になると、役に立たないので、西洋式の学校があらたに創られた。だから、基本的には藩校の系譜を引き継ぐ学校はない。

ただ、幕末から明治になって創られた医学校は、そのまま、近代教育に引き継がれた。九州、名古屋、東北大学の医学部などそれだ。

高校で伝統を引き継ぐと言って名前を使っているのもあるが、福岡修猷館などは明治になって、元藩主から金を引き出す口実として再興がうたわれただけだ。米沢興譲館なども戦後になって名前を復活させただけだ。

いわば、アピシウスという古代ローマの名シェフの名を冠したレストランがパリにも東京にもあるが、それと同じだ。

ただ、強いていうなら、松山東(旧明鏡館)とか米沢興譲館、あるいは萩の明倫館小学校は系譜として相対的に断絶の度合いが小さい存在ではある。