四を絶つ

私は前々回のブログ『一番最初に○○する人』で、『顔回の如く修養を積むことで、少なくとも激怒しても「怒りを遷さず」(『論語』雍也第六)、許す位の包容力は持てるのかもしれません。包容力というのは、そういう強さから出てくる部分があるのも確かだと思います』と書きました。そしてそれに続けては、下記のように述べておきました。

――私は、「仁(じん)」の思想の原点に「恕(じょ)」があると考えています。恕とは他人に対する誠実さであり、如(ごと)しに心と書くように「我が心の如く」相手を思うということです。之は、慈愛の情・仁愛の心・惻隠(そくいん)の情と言い換えても良いでしょう。相手の動機や行為等々を理解し受け入れて許す寛大な心を持たなければならないと思います。このような心を持つには、自分を律する強い心が必要なのです。

『論語』の「子罕第九の四」に、「子、四(し)を絶つ。意(い)なく、必(ひつ)なく、固(こ)なく、我(が)なし」とあります。孔子は「私意がない、無理を通すことがない、物事に固執することがない、我を通すことがない」というのが大事だと考えて、「意必固我」を意識的に行わぬよう己を律してきました。

孔子が此の四を絶った理由は、徳をどう磨いて行くかを考えた時、自らに課した解決の仕方ではなかったか、と私は理解しています。そういう修養を積むことで、孔子という非常にバランスのとれた人間が出来上がったわけです。私は、意必固我を排して行こうというのが結局のところ、冒頭挙げた包容力の全てではないかというような気がします。

包容力とは、現代風に言えば、例えば多様性を受け入れて行くことです。人間誰しもが個を確立すると他を受け入れない、といった片一方の極に達します。意必固我に陥っている人は自分の考え方に拘り、自分の考えだけで物事を判断したり、何が何でも必ず自分が決めた通りにやろうとしたりするものです。

実は上に立つ者ほど、此の意必固我に陥り易い傾向にあります。意必固我を押し通せる立場にあり、また押し通すことが強いリーダーシップだと錯覚している人もいるからです。しかし意必固我を捨てられねば、物事の見方が狭く浅く偏った人物になってしまいます。そういう人物は、いわば中庸の対極にあると言えましょう。

もちろん組織において最終決断は、リーダーが一人で下す必要があります。しかしそれは、独裁ではあっても独断であってはいけません。リーダーが己の意必固我から離れ、広く深く偏りなく物事を見ることが出来ないと、正しい決断は困難になるのです。

では如何にして四を絶ち得るのかと言えば、先ず一つに私自身常に心掛けているのが、「思考の三原則」に則って物事を考えるということです。これ即ち一現象において、「枝葉末節ではなく根本を見る」「中長期的な視点を持つ」「多面的に見る」、の三つの側面に拠って物事を考察するのです。此の考え方を身に付けて行けば、意必固我はある程度減ぜられると思います。

そしてもう一つ、四を絶つ上では学問を怠らぬこと、学び続けることが大切です。孔子は、「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し…学んでも自分で考えなければ、茫漠とした中に陥ってしまう。空想だけして学ばなければ、誤って不正の道に入ってしまう」(為政第二の十五)と言っています。また別の章句では、「学べば則ち固ならず」(学而第一の八)とも言っています。学問をすれば、一事柄に執着する頑固者ではなくなるわけです。

学ぶことは、自分がそれまで知らなかった物事の道理や考え方を知ることです。更に言えば、「自分にも知らないものがある」ことを知ることでもあります。それを知った分だけ人は己に謙虚になり、意必固我から遠ざかり得るのです。「学んで」「思うて」己の視野を広め、思考を深めて行く――そうやって一歩一歩、意をなくし、必をなくし、固をなくし、我をなくし、孔子が最高至上とした中庸の徳の境地に近付けたら最高ですね。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年10月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。