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※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。
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賤ヶ岳の合戦が終わったあとの織田政権を、現代の企業にたとえれば、三法師さまは代表権のない会長みおたいなものであることは、誰も異議がありませんでした。
ところが問題はその次です。織田信雄さまは自分が社長で、秀吉は実力ナンバーワンであることは認めるにせよ、あくまで副社長に過ぎないと考えました。
これに対して、秀吉さまは、信雄さまの家来扱いされる憶えはなかったのです。それに、信雄さまに織田一家をとりまとめる能力があるとはとうてい思えず、信雄さまが名目だけの副会長、自分が社長といったくらいが精一杯、織田家を立てた形だと考えたのです。
同じ方向を向いていても、互いの立場についてのわずかな認識の違いが、とんでもないお家騒動になるのは、現代の企業でも戦国武将の家でも同じことでございます。
賤ヶ岳の戦いの翌年である天正12年(1584年)の正月、とりあえずの再建がなった安土城では、諸侯は三法師さまを抱いた秀吉さまの前で賀詞を述べ、ついで、信雄さまの屋敷に伺候しましたが、秀吉さまは信雄さまのお屋敷にはお姿を現しませんでした。
3月には大津の園城寺(三井寺)で秀吉・信雄会談が行われたのですが、信雄さまは最初の会談のあと、暗殺をおそれて家臣たちを置き去りにしたまま伊勢へ逃げ帰ってしまいました。
ここで信雄さまに取り入ったのが、徳川家康さまです。というのは、家康さまは、本能寺の変のあとに、信長さまから家臣たちに与えられた甲斐や信濃を横領したから、これを返せと言われないように予防線を張ったのでございます。
天正10年(1582年)に武田勝頼さまが滅されたとき、信長さまは徳川家に駿河を差し上げられましたが、甲斐、信濃、上野の一部は織田家の武将たちに分配しました。厩橋など上野西部と信濃の佐久地方は滝川一益、信濃の北四郡は森長可、筑摩や木曾谷は木曾氏、伊那は毛利秀頼、そして諏訪と甲斐三郡は河尻秀隆です。
ところが、本能寺の変のあと、北信濃は上杉に、上野は北条に取られましたが、残りは家康さまがちゃっかり横領してしまわれたのです。これを、旧領主である森、滝川、毛利などが根に持っていないわけはありません。
家康さまにしてみれば、まず、何よりも自分の領地へ信雄さまに侵入されてはたまりません。一方、当然、秀吉さまは、信雄さまの関心が東へ向くことを期待します。そこで、家康さまは信雄さまを籠絡する必要があったので、「信長さまのご恩に報いるため、いつでもお力になります」と涙ながらに語られたのでございます。
そこで、信雄さまは、家康さまが味方してくれるというので、秀吉さまに高飛車に出られました。3月になって信雄さまは、秀吉さまに内通したとして、津川義冬さま、岡田重孝さま、浅井長時さまの3人の家老を斬殺されました。
津川義冬さまは尾張守護だった斯波義統さまの子で、正室は信雄さま正室である北畠氏の妹でした。この三家老殺害がきっかけで、世にいう「小牧長久手の戦い」の開戦ということになったのでございました。しかし、秀吉さま自身も危惧したこの無謀な作戦は惨めにも失敗しました。
「三河中入り作戦」の失敗で戦局は膠着したのですが、秀吉さまは着々と伊勢や美濃にある信雄さまの領地などを占領し、尾張の戦線に兵力を残したまま、自分は新しい城を築いた大坂に引き上げてしまいました。そして、信雄さまとも水面下で和平交渉を始めると、信雄さまはあっさり応じて矛を収めてしまいました。信雄さまは自分の支配地は半減し、開戦したことを悔いるばかりだったからでございます。
こののち、小田原の役ののちに改易されるまで、信雄さまは内大臣にまで昇進され、官位も徳川家康さま、(秀吉さま弟の)豊臣秀長さま、秀次さまより上で、豊臣政権のナンバーツーとだったのですから、不満はなかったのでございます。
万事がいい加減な信雄さまに、はしごを外されて家康さまは困りましたが、何しろ粘り腰です。秀吉さまのもとに石川数正さまを送り、「信雄、秀吉の両所が和睦は天下万民のためにめでたい」といわせたので、秀吉さまは家康さまもおっつけ上洛するのだと早合点して、「家康殿の縁者のどなたかを養子に迎えたい」といったのです。
家康さまは、久松俊勝さまと家康さまの母である於大さまの三男の定勝さま(のちの伊予松山藩祖)に白羽の矢を立てました。ところが、困ったことに、於大の方がどうしても承知しません。
「次男の康俊を今川に人質に出したら、武田に連れ去られ、逃げだしてきたが、可愛そうに凍傷で両足の指を失った。兄の水野信元も信長の指示だと言って切腹させた。末っ子の定勝は手元に置いて大事にしてるのに、それを人質に出すとはどこまで母を苦しめる気か」と烈火のごとく怒りました。戦国の母は強いのでございます。
そこで、家康さまは、しぶしぶ次男の於義丸(秀康)さまを出すことにいたしました。このとき、三男の長丸(のちの秀忠)さまとどちらが世継ぎか確定していませんでした。ですが、たまたま手を付けた侍女が生んだ於義丸さまは、はっきりいって自分の子かどうかすら確信がなく、しかも気性も気に入らなかったのです。
そこへ来ると、愛妾の西郷局の子で本人も従順そうな長丸(のちの秀忠)さまのほうが世継ぎにいいかと漠然と考えていたので、思い切ったのでございます。