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※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。
越前が雪に埋もれている間に秀吉さまが好き放題されていたのに我慢ができず、柴田勝家さまはいたたまれずに3月3日に雪がまだつもる中で強行出撃しました。秀吉さまは軍を近江に戻し、湖北の木之本付近で柴田軍と羽柴軍がにらみあうことになりました。
ここで前回書いたように信孝さまが動いたので、秀吉さまはいったん美濃に転身しましたが、これは、柴田軍をおびき出す意図があったのでしょう。果たして柴田軍の佐久間盛政さまは、中川清秀さまが守る大岩山の砦を急襲いたしました。その近くにある岩崎山の砦にあった高山右近さまは撤退し、清秀さまにもそれを勧めましたが、清秀さまは踏みとどまって戦死してしまいました。
清秀さまは武将としての美学を通したわけでございます。ちなみに、清秀さまの嫡男である秀成さまの正室には、秀吉さまの指示で佐久間盛政さまの娘を充てられましたが、清秀未亡人はこの嫁に辛く当たったと言います。
だが、盛政さまはこの緒戦の勝利に酔ってしまい、勝家さまの忠告を無視して羽柴軍を深追いしてしまいました。ここで陣形が伸びてしまったところに、急を聞いた羽柴軍が戻ってまいりました。迅速な行動は羽柴軍の得意とするところですが、勝手をよく知った湖北での戦いだけにそれが可能だったのでございます。
羽柴軍は農民に松明を炊かせ、食事を炊き出させて、常識破りのスピードで戻ってきました。午後4時に大垣を出発して、50キロを5時間で走ったといいますから、少し誇張があるかも知れませんが、驚異的なスピードでした。
盛政軍はあわてて退却しようといたしましたが間に合わず、羽柴軍にさんざんに打ち破られました。福島正則さま、加藤清正さまのほか、浅井旧臣の片桐且元さま、脇坂安治さまなど賤ヶ岳の七本槍といわれる羽柴軍の若手武者たちが活躍したのはこのときのことです。
しかも、この戦いでは前田利家軍が傍観し、戦況不利と見ると早々に戦場を離脱いたしました。柴田の与力とはいえ、秀吉さまとは若いときから懇意で、娘の豪姫を秀吉夫妻の養女として出しているほどでしたから、もともとしぶしぶ参加していたのですし、それは勝家さまも分かっていたことでした。
そこで勝家さまは、北ノ庄への帰路、府中の城に立ち寄り、利家さまの従軍に感謝し後事を託して落ちていったのです。そのあと、こんどは、秀吉さまが現れて利家さまとまつさまの夫妻に会い和解しました。
北ノ庄城への攻撃は四月二三日に始まりました。翌日には大勢も決し、勝家さまは敵の手で討ち取られるよりはと、自決する覚悟を述べられ、城から落ちたいものは自由に出て行くように仰いました。
にもかかわらず、そこに残った家臣や妻妾たちは勝家さまとともに果てることを望んだといいます。そして、一族そろって念仏称名を唱え、この世に別れを告げ、おのおの自決したり、差し違えたりと言った地獄絵が繰り広げられたのです。
どうしてわたくしたちの母であるお市が、小谷城のときと違って死を選んだかについては、いろいろな説明がございます。わたくしたち姉妹は、小谷城の時と同じように、母が私たちと一緒に落ち延びてくれるものだと思っていただけに、母が城内に残ると言ったことは衝撃でした。
どうして私たち三姉妹を残して死んだのか納得できないところがありますが、私は、その場の雰囲気として、母は柴田一族と運命をともにするのが自然な選択になってしまったということだと思っています。
どの時代でも戦争に集団自決はつきものです。そうしたとき、本当に死にたいと思う人はそう多くないのです。しかし、誰かが「みんなで死のう」といったとき、それに反対することは難しいことなのでございます。
そして、母たちの最後の場にはいなかったわたくしたちがその様子を詳しく知ることが出来たのは、勝家さまが話術に巧みな老女に命じて、すべてを見届けたあとに城外に出て、敵方に自分たちの最後の様子を語らせるように命じたからだと宣教師フロイスの報告にあります。
その時代としては近代的な考えの者が多かった織田の家中にあって、ただひとり、古武士らしい振る舞いに徹することが誇りだった勝家さまは、こうして、多くの人を道連れに芝居がかった戦国武者としての人生にピリオドを打たれたのです。
わたくしたちは、母に別れを告げて、羽柴軍の陣営に送り届けられることになりました。そこから、わたくしたちは、前田さまの居城である府中に立ち寄ったあと、しばらく、湖北の寺院に預けられていたような気がいたします。当時は夢中で、預けられているのがどこだなどという意識は、あまりなかったので覚えておりません。しかし、やがて、三法師君がおられる安土城に住むことになったと記憶いたします。
安土城は本能寺の変のあと天守閣などは焼かれましたが、すべての殿舎が失われたわけではありませんし、応急で新しい御殿も整備され、のちに、豊臣秀次さまが近江八幡に移られるまでは城も町も存続していたのです。
こうして、越前での戦いが終わったことで、岐阜の信孝さまも孤立無援ということになってしまわれました。結局、信雄さまの勧告で城を出られ、五月二日には尾張の知多半島にある大御堂寺で自害されました。
このとき、「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」と辞世の歌を詠まれたともいいますが、切腹を命じたのは信雄さまですから、少し疑わしいと思っております。