教育への親の関与

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日本で教育全般、様々な議論が沸き起こっており、変革期にあるような気がします。適齢期の子供がいない人にとってはあまり関心がないのかもしれませんが、子供の教育こそ、次世代の日本を担う人材を孵化させるインキュベーションであると考えれば他人事というわけにはいかないと思います。

かつて日本で母親は教育熱心だったと思います。昔の漫画には宿題に追われ、親から「終わるまで遊びに行っちゃだめ」とまくしたてられるシーンは数多くあったと思います。あの頃は母親は家にいたのです。そして家のことだけではなく、子供の教育を主体的にみるという重要な役割を果たしていました。それは夫婦間の立派な分業であったと思っています。ところがその役割は金銭的に換算しずらいうえに、母親を家に縛り付けるというイメージから女性の社会進出が強く叫ばれてきました。

もう一つは母親が子供の勉強の相談に乗れなくなり、塾に追いやるケースが増えたことでしょう。塾とは母親が担うべく仕事を代行しているともいえ、進学塾ではない普通の塾では子供の監督を含めた役割を期待されています。

昔の母親はなぜ、教育熱心だったか、子供を含めて人々の人生が極めて分かりやすいシナリオが基本パタンとして存在していたことがあると思います。良い高校や大学から名の知れた一流企業で終身雇用してもらい、60歳になれば高額の退職金をもらい、悠々自適のライフを送れるのだということを子供に伝承することでしょうか?

もう一つはより儒教的ではありますが、子供が立派に育った際には子供に養ってもらうという期待感があったはずです。これは長男が家を継ぐという発想が根本に残っており、親の面倒を子供が見る、それは金銭的なものも含まれていたと解釈しています。

日本では金銭の部分は剥落したかもしれませんが、韓国は今でもその名残が強く、とにかくNo1にさせるために親は必死でありました。故に韓国のKPOPのスターたちが片言の日本語をしゃべり日本で稼いだり、韓国のプロゴルファーが日本や世界で稼ぐことを標榜していたと考えています。

これが現代社会になり大きく変わりました。まず、親が子供の教育にかつてほど熱心ではない、教育費の高騰で十分な親としての施しができない、共稼ぎが普通になり子供が放置されている、子供が成人しても親の面倒など見ない、転勤で親とは物理的に離れたところに住む、給与が厳しく抑えられ親どころが子供の生活すらままならない…といった具合でしょうか?

日経に「学校で『やり抜く力』は育つか」という編集委員記事があります。いわゆる学力やIQといった認知能力だけではなく忍耐力、好奇心、やり抜く力といった非認知能力が重要になってきているというものです。

アンジェラ ダックワース氏の「やり抜く力(Grit)」(2016年発刊)は本ブログで何度かご紹介したのですが、なぜ一冊の本を複数回ご紹介したかと言えばそれぐらい衝撃を受ける内容の本だった、そして自分の中で今でも印象深い名著の一つだと思っているからです。日経の記事はダックワース氏の書籍には一切触れてはいないものの記事的にはそれに沿っています。

教育における親の役割とは何か、この書籍を読むと自分なりに描きやすくなります。一言でいえば親が子供を主導するのか、子供の才能を親が引き出すために可能性のオプションを提示するのかの違いです。例えば子供がサッカーが大好きで将来はサッカー選手になる夢を見ているとします。親はそれに対してそうだな、サッカーの強い学校に入れてプロを目指せるように主導するのでしょうか?

それとも子供にサッカーもいいけれど柔道もあるし、マラソンもある、テニスや自転車もある、一通りやってみて自分に最もふさわしいと思うことを自分の体得から決めなさいというオプションの提示をすることです。優れた親の役割、その答えは後者です。

親が歩んできた人生と子供たちが歩みだすそれとはあまりにも社会や価値観が変化し、親の押し付けは将来無効であるとすれば子供たちが自分で立ち、考える癖、そしていろいろなものに興味を持つ土壌を作ることが大事だと思うのです。それは時として嫌なことでも体験させるという押し込みであります。それは親が担わなくてはいけません。

今の時代、ある一つのことに注力していてもなかなか成就できなくなりました。2つ、3つのことを掛け合わせて新たなジャンルを作り出す、そのためにはサッカーだけ知っていればいいというわけではないのです。

欧米で大学に入学する時、入学試験ではなく、GPA(Grade Point Average)、課外活動、エッセイ、推薦状といった非常に総合的な力を要求されます。特にGPAは日本でいう内申書以上にその中身の分析結果が重視されます。日本は内申書と一発勝負の入学試験です。入試は要領の世界。しかし、GPAにしろ課外活動にしろこれは普段の絶えまぬ努力でしかなし得ない評価であることを理解すべきでしょう。

この辺りの違いが教育の違和感となってきているのです。偏差値世代とよく言われていますが、正直、偏差値ではない世代がいるのか、と逆に聞きたくなります。日本の教育は偏差値に汚染されているのに文科省、模試の事業者、教育委員会、学校の先生がまるで変える気がないのです。こんな鉄壁の構造体はありません。私はこれが壊せないなら日本の教育は恐ろしいほど立ち遅れることになるとみています。

ノーベル賞なんてそのうち全く取れなくなる日が来ます。それでも真綿で首を絞められている我々は分かっているけど一歩目が踏み出せないということなのでしょう。

私が考える唯一の方法は民間と優れた人材で全く新しい教育システムを作り上げること、そして官主導の現在の仕組みにぺんぺん草を生えるようなそんな変革の核融合が生まれることを期待します。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年12月13日の記事より転載させていただきました。