良心というもの

今月2日のブログの中で、私は次の通り述べておきました――真善美を追求すると言っても結局のところ、最後は人間としての良心を信じて生きることでしかないものだと言えるのかもしれません。『大学』に「明徳を明らかにする…自分の心に生まれ持っている良心を明らかにする」とあるように、人間である以上みな良心というか明徳というものがあるわけですから、やはり最終的には此の明徳に頼って自分の良心の声を聞き、そして自問自答する中で物事を判断するしかないのだろうと思います。

例えば、自分の親が死んだら悲しいとか子供が産まれたら嬉しいとか、の類は世界共通する一種の真理と言えましょう。私は、そうした普遍の真理の根源にあるのが、良心というものだと思っています。

人間である以上そうした根源的なものがちゃんと天から与えられ、そして一つの道徳観として小さい時から醸成されています。孟子流に言えば、正に「惻隠(そくいん)の情」というものです。「子供が井戸に落ちそうになっていれば、危ないと思わず手を差し延べたり助けに行こうとする」人として忍びずの気持ち即ち「惻隠の情」であります。私は之こそが、良心の根源にあるものではないかと思っています。そういった物の考え方をするのは、私が基本的に性善説に立っているが故かもしれません。

しかし、本来人間は皆「赤心…せきしん:嘘いつわりのない、ありのままの心」で無欲の中に此の世に生まれ、誰しもが持っている良心というのは欲に汚れぬ限り保たれて行くものであります。ですから、冒頭挙げた『大学』では「明徳を明らかにする…自分の心に生まれ持っている良心を明らかにする」ことが大切だと「経一章」から教えているのです。

『三国志』の英雄・諸葛孔明は五丈原で陣没する時、息子の瞻(せん)に宛てた手紙の中に「澹泊明志、寧静致遠(たんぱくめいし、ねいせいちえん)」という、遺言としての有名な対句を認(したた)めました。之は、「私利私欲に溺れることなく淡泊でなければ志を明らかにできない。落ち着いてゆったりした静かな気持ちでいなければ遠大な境地に到達できない」といった意味になります。

明徳が私利私欲の強さに応じ次第に曇らされて、結局は明がなくなって行くといったことにならぬよう、私利私欲を遠ざけ何事に囚われるのではなく、無垢な生地の自分というか赤心というものを維持して行くことが、私は一番大事だと思っています。孟子が「大人(たいじん)なる者は、其の赤子の心を失わざる者なり」と言っている通り、大徳の人と言われる程の人物は、何時までも赤子のような純真な心を失わずに持っているものです。

今年一年、小生の拙いブログを御愛顧いただき誠に有難う御座いました。
来年が皆様方にとって良い年になりますよう、心より祈念致します。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年12月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。