※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (光文社知恵の森文庫)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。
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元和元年(1615年)の新年になると、家康さまは大坂方に無理難題を突きつけます。浪人たちを許すことは承知しても城外に留めるとは思っていなかったといって追放を要求します。しかし、浪人たちが得るものもなく出て行ってくれるものではありません。そして、それが嫌なら大和か伊勢に移れと仰ったのです。
秀頼さま自身も、あまりにも不名誉な屈服をすることには難色を示されます。関ヶ原の戦いのときの織田秀信(三法師)さまもそうですが、幼少のころから父や祖父の偉大さを吹き込まれて育った若者は、それほど現実主義者には育たないものです。
茶々が過去の栄光を忘れずに柔軟になれなかったのだという人もいますが、茶々とすればそれなりに面子さえたてば、秀頼さまの身の安全がいちばん大事ですから、妥協の余地もあったと思うのですが、秀頼さまなりの誇りが、妥協の邪魔になりました。
家康さまはいったん駿府に戻られましたが、名古屋の義直さまと浅野幸長さまの娘である春姫の結婚を口実に尾張に出てこられることになりました。
そののち、家康さまは上洛し、秀忠さまも大急ぎであとを追ってきました。ここまでなんとか、和平の道を探っていた有楽斎さまは、もはやするべきこともないとして城外に出られましたが、私はいまさら茶々を見捨てられません。最期まで一緒にいることにしました。
外堀まで埋められた大坂城では籠城戦はできません。このために、外に討って出て奮戦し、天王寺・岡山口の戦いでは、家康さまの娘婿で信州松本城主だった小笠原秀政さまとその嫡子である忠脩さまが討ち死にしました。さらに、真田幸村さまが家康の本陣に迫り、馬印を倒さざるを得ないまでに追い込みました。
しかし、しょせんは多勢に無勢です。この戦いで大阪方が有利だったときに、秀頼さまが出陣されるという絶好のチャンスはあったのですが、茶々などが躊躇しているうちに期を逃してしまいました。 茶々は大張り切りで具足をつけて城内を回ったりしておりました。
こうして真田幸村さまも戦死し、大野治長さまはようやく茶々と秀頼さまの助命嘆願の交渉に乗りだし、千姫さまを城外に脱出させました。私は城内が大混乱するなかで家来に背負われて城外に出ました。京極家の将来を考えれば、私が茶々や秀頼さまとともに死ぬのはよろしくないことですから仕方ありません。
茶々と秀頼さまの最期と、助命交渉がかなわなかった経緯については、私もその場にいたわけでありませんし、伝え聞くところもまちまちで正確なところは分かりません。千姫さまは助命を願われたようですが、家康さまが聞き入れるつもりがないことははっきりしていました。
家康さまが「将軍さま次第」といい、秀忠さまが「一度だけでなく何度も戦いを挑んだのだから仕方ないから早々に腹を切らせよ」と仰ったという説もありますが、秀忠さまとしては家康さまの意図するところは分かっていましたから、助命出来なかったのだと思います。
茶々と秀頼さまは、山里丸の糒櫓に入りました。ここで、井伊直孝さまから大野治長さまに助命がかなわないという最後通告があったといいます。この役目を最初は藤堂高虎さまに命じようとされたのですが、さすがに浅井旧臣で長政さまから姉川合戦で感状をもらったこともある高虎さまは固辞しました。
最期をともにした中には、大蔵卿局や長政の従姉妹にあたる饗庭局など浅井家ゆかりの何人かがおりました。この隠れ場所を突き止めたのは、片桐且元さまだともいいます。浅井ゆかりの者が、こころならずも、家康さまの掌の上で踊らされて残酷な役回りをさせられていたのです。
且元さまは、戦後、四万石に加増されましたが、20日のちに亡くなられました。秀頼さまを助命してもらうためにあえて、徳川に協力したつもりが、とんでもないことになっては、生きていくわけにはいかなくなったのだろうと噂されたものです。
そして、徳川譜代で、しかも、豊臣家の人々と面識のない第二世代の直孝さまが死刑執行人に抜擢されたのは、さすがに譜代の武将たちも家康さまの情け容赦ないやり方に腰が引けたのかも知れません。
わたくしは一緒に城内に入っていた男女の従者とともに城外へ出て、京都をめざしました。途中で茶々に女中として仕えていた菊というものを拾いました。その祖父である山口茂介は浅井家で足軽頭だったもので、藤堂高虎さまの上司だったことがあります。そんな縁で藤堂さまの客分になっていたのですが、東西が戦うことになったので、菊の父である茂右衞門と菊と三人で大坂城にはせ参じたのでした。
守口の民家までたどりついて、筵の上に座って徳川方に連絡をとると輿が迎えに来ました。菊たちに「城内にいた以上は女といえども罰しられるかも知れない。できるだけのことはするが、覚悟はしておくように」と諭しました。しかし、迎えの者たちが、戦いも終わったのでどこにでも送り届けるといったので一安心でした。お菊は京極竜子さまのところでしばらく世話になったようでございます。
残念なことは、秀頼さまの子で里子に出されておりました国松君が、戦いが始まったので城内に入っておりましたところ囚われ、六条河原で斬殺されたことでございます。一方、娘の方は千姫さまの嘆願で助命されて鎌倉の東慶寺に入って尼となりました。
江戸では秀忠さまの跡継ぎを竹千代君とすることが確定いたしました。お江だけでなく秀忠さまも利発な国松君の方を可愛がっておられたのですが、このころ林羅山の影響で儒教などに傾倒され始めていた家康さまは世の中の安定のためには、よほどのことがない限りは長子相続というようにすることに傾かれました。
それと同時に、自分のことを恨みに思っているはずのお江の力が増すことを嫌われたのも当然です。
そんなときに、秀忠さまが家康さまに意見を言えるような人ではなかったのは、繰り返し書いてきたことです。逆に、秀忠さまは、お江を納得させるためにも、国松君のために、御三家などの上に立てるようにかなりの配慮をされていくのですが、結果から言えば、それが仇になったといもいえるのです。
駿府で大御所家康さまが亡くなったのは、大坂夏の陣の翌年4月のことでした。ちょうど訪ねてきた茶屋四郎二郎らが、京都で鯛の揚げ物が流行っているということを話したのに興味をそそられ試されたところ、ことのほか美味いというので少し過ぎられたのがいけなかったようでございます。
あれだけ健康に気を遣われていた家康さまも、豊臣を滅ぼして気がゆるんだのでしょう。それを聞いて、わたくしたち姉妹の運命を操っていたこの老人も、また死という定めから免れなかったことに、何か安心したような気持ちになりました。
完
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『豊臣と徳川の真実』は今回で終了し、新年からは「坂本龍馬の幕末日記」を連載します。
「豊臣と徳川の真実① 秀吉が死んで家康が最初に何をしたか」はこちら
「豊臣と徳川の真実② 前田利家と家康の真剣勝負」はこちら
「豊臣と徳川の真実③ 前田利長は自殺だったのか」はこちら
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