※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。
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土佐の長宗我部は関ヶ原で負けて取り潰され、旧臣たちは郷士という武士と農民の中間的身分に貶められたと勘違いしている人が多い。だが、本当のところ、土佐の郷士は上級武士と下級武士の中間に位置し、他国の郷士よりは格段に優遇されていた。
逆にそうだからこそ、上級武士にライバル心を燃やすようになり、国学などを学んで勤皇の志士たちを多く生み出し、佐幕派が多い上士たちと対抗するほどの勢力になった。
坂本家はその郷士の中でもトップクラスで、石高から言えば、参政をつとめられる上士並みの石高だった。身分としての序列は低くとも、大金持ちだったから、そんな卑下する立場でもなかった。
それに、長宗我部旧臣でなく、江戸中期に金で身分を買った城下有数の豪商から出た家柄である。苦労したなどと言うとご先祖に申し訳ない。
脱藩というのも幕末にだいぶ流行ったものだが、単なる無断出国に過ぎず、「竜馬がゆく」で、それが原因で姉のお栄が自殺したなどという事件は起きようはずもない。家族思いの私は、そんな危険な目に姉を遭わせることはしない。
しかも、藩という呼び名は江戸時代には公式には使われなかったものだから、脱藩罪などという言葉は聞いたことすらない。
大政奉還は私のアイディアでなく、かなり以前からいろんな人が議論していたものだ。土佐藩重役の後藤象二郎に長崎から大坂への船で、付随の制度改革も含めて分かりやすい形にして説明したら、藩としての意見をまとめる参考にしてもらって、最後の将軍となった徳川慶喜公に上申されただけのことだ。
しかも「船中八策」というかっこう良い名前は明治になってつけられたものであるし、書いたのも海援隊にいた長岡謙吉であって私ではない。私はあんな立派な文章を書くような教育を受けていない。
「日本を一度洗濯したく」というのは、長州と戦って損んだ外国艦船を幕府が修理したと聞いて、「同じ日本人として悔しい」と思って姉の乙女に書き送った時に使った言葉であって、日本を大改革しようなどと気宇壮大なことをいったつもりはない。
だいたい、私は志士たちの中では、難しいことをいわずに、みんなで協力して仲良くやろうやと軽やかに動き回るのが取り柄で、激烈な改革のシンボルにされるような人間ではおよそない。
私が優れた思想家だとか、クリーンな人間などと思われても困る。なにしろ勉強が苦手で、難しい本を読むのはあまりせず、インテリ揃いの志士たちのなかでは例外的な存在だった。
お金についても、私の職業は現代でいうフィクサーである。正式の給料はほとんどもらったことがないし、純粋な商業取引もあまりしたことがないから、いささか怪しげな形でマージンをとったり、いまでいう裏金に手を染めたこともある。
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