龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋

八幡 和郎

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。

高知城下(MasaoTaira/iStock)

土佐の高知城下で、私が生まれたのは、天保六年(1835年)のことである。旧暦の11月15日で、ちょうど、後年に近江屋で暗殺された日と同じということになる。その前の月だったという人もいるのだが、実はよく覚えていない。

誕生日を祝うのは、文明開化のあとで盛んになったことで、当時は数え年で年齢を言っていたのだから、さほど重要ではなかった。

坂本家のルーツは、私が四歳の時に父が当局に提出した「先祖書指出控」があって、これが公式の戸籍のようなものといえ、古代豪族である紀氏の流れをくむとしている。「土佐日記」を著した紀貫之もその一族なのも何かの縁だろう。

高知城下に出てきたのは、江戸時代初期の八兵衛守之で、質屋や酒造業を経営して成功した。戦国時代に山城から長岡郡才谷村に移ってきたとされるう太郎五郎から数えて四代目だと称し、城下に出てきたときは大浜姓を名乗っていた。

その八兵衛は、長男の兼助(八平直海)を郷士とし、次男の直清に才谷屋を継がせた。このときの経緯はよく分かっておらず、郷士株を買ったのか、新たに与えられたのかも不明だ。ただ、このときに坂本姓を名乗り始めたのは確かなようだ。

もともと坂本姓の郷士株を買ったのではないかとも言われているがひとつの推測に過ぎない。

もしかして我が家に郷士株を売ったのでないかといわれる坂本家は、近江出身である。明智光秀の甥とか娘婿とかいわれる光春の子孫とも言われる。

安土城を占領していたが、安土から坂本に帰る途中、秀吉方の堀秀政軍を避けて琵琶湖の湖上を馬で越えたという『川角太閤記』に出てくる「明智左馬助の湖水渡り」伝説でも知られる。

明智左馬助の湖水渡り(歌川豊宣画「新撰太閤記」/Wikipedia)

それがゆえに桔梗の紋を使い、居城だった坂本城に由来姓だと言った伝承が語られるのも、ここにルーツがあるのかもしれない。

欧米と違って養子縁組が多い日本では、本当の血統と、名目上の先祖が混合してどちらがどっちかよく分からなくなってしまうことが多く、こうした混乱はよくあることだ。

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