成人式がなかったあなたへ 行かなかった私から

成人式である。

毎年、この時期になると、北九州市など一部の地域の成人式が狙い撃ちされ荒れている風の若者やその言動を捉えて一般化する。阿蘇市の市長が何を歌ったのかが話題となる。いまや若者にとってますます接点のないメディアとなった新聞が社説で、説教のような、エールのようなことを書く。若者応援おじさん・お兄さんがSNSに意識高い系メッセージを書き込む。

いつも、この光景を激しく傍観していたのだが。今年は成人式そのものが中止・延期になったり、オンライン開催など形式を変更している。SNSをながめていても、決行する自治体に批判が寄せられていたりもする。中止・延期にも、決行にもそれぞれの論理があり。ここでも、新型コロナウイルスショックに対する価値観の分断、摩擦のようなものがある。

教え子たちの話を通じて、成人式には特別な想いがあることを確認する。晴れ着をまとった、最高に輝いている自分の記録であり。地元の仲間との再会である。携帯→スマホの登場により地元のつながりが続く時代ではあるが、ここでしか実現できない再会もあるわけで。

もっとも、成人式開催に警鐘を乱打する気持ちもよくわかる。なんせ大勢が集まるし、その後の飲食による感染リスクが存在する。

一方、都市部を中心に感染者は増えており。今年どころか来年も今まで通りに開催できるイメージはない。成人式はいつの間にか伝統芸能にならないか。

ここは、いったん、成人式というものを手放して、大人になるということを考えたい。さらには、この日に大人になることを決意する必要はあるのかと。

私は成人式に行かなかった。当時、住んでいた立川市には中川淳一郎以外(彼の実家は立川)友達がいなかったし、そんな彼も一つ年上で。札幌に戻るという手もあったが、当時も「スカイメイト割引」があったものの、飛行機代は高く。育ての親の一人である祖母を亡くした直後だったこともあり、札幌に帰る気も起きなかった。

もっとも、成人式で会ったこともない市長のありがたい講話を聞くよりも、その場で会った初対面だらけの同世代と「絆」のようなものを確認するよりも、成人式だった日の2日後に強烈な張り手を食らうことになる。阪神・淡路大震災だ。早朝の出来事で。しかも、朝刊にはのっておらず。珍しく激しく寝坊をし、11時半ごろに起きて3限に向かったと記憶している。大学に行ったらみんながワサワサしていた。未曾有の震災である。2ヶ月後には地下鉄サリン事件も起き。歴史に残る大きな出来事と直面し、自分も死ぬかもしれない、死んでいたかもしれないと思うことによって、急にオトナの自覚が湧いてきた。

そもそも、20歳だった1994年から1995年にかけては、人生においても大変に濃い時期で。育ての親である祖母の体調が悪く。電話をとるのが怖かった。実際、容態が悪化し、すべてのアポをキャンセルし、札幌に駆けつけたことも何度かあった。本当はこの年、初の海外旅行をする予定だったが、これもキャンセル。結局、祖母は秋の嵐の翌日に亡くなるのだが。

一方、恩師竹内弘高先生、盟友中川淳一郎と出会った年でもあり。よく学び、よく遊んだ。意識高くゼミに2つ所属し、第三外国語まで履修し、背伸びして本や論談誌を読み漁る日々。一方で、プロレス研究会ではバカなことを腹いっぱいやった。アルバイトでも稼ぎまくった。一気にオトナになった1年だったようにも思う。

オトナの定義は様々である。法律的なオトナ、社会的なオトナ、身体的なオトナなどなど。

成人の日に考える おとなの階段、のぼる

東京新聞が社説でふれているが、すでに選挙権はあるし、来年からは成人年齢も18歳に引き下げられる。成人式のあり方も変わる可能性はある。もちろん、移行期間もあるだろうが、20歳の若者が集まる式典というのはコロナの影響もあり、意外にはやく終わるかもしれない。

ただ、一つ言えるのは、成人式があったくらいでは、精神的なオトナになるわけでもなく。さらに、成人式を迎える前からとっくにオトナである。

今年の各社の社説は、昨年よりも上から目線度が減ったように感じる。ただ、若者が読んだことのない新聞で、何かメッセージをおくったり、過度に寄り添ってみる茶番っぷりは変わらない。

成人の日 難局にひるまず前を向こう

(社説)成人の日 コロナ禍でも前向いて

【主張】成人の日 世代協力し未来を築こう

例によって頑張っている若者、困難を乗り越えた若者も紹介されている。白血病と闘った水泳の池江璃花子選手などもそうだ。

彼ら彼女たちにケチをつけるつもりはない。特に池江選手に関しては私も、がん家系で。仏壇仏具職人だった母方の祖父は癌だった。父も大学院生時代に脳腫瘍が発覚。39歳でなくなった。母も乳がんの手術をしている。定年退職直後だったのだが、「70代におっぱいは要らない」という言葉を吐き、あっさり切った。

社会を変えようとしている若者がいる。闘病中の若者がいる。家族のケアをしているヤングケアラーもいる。子どもを産み育てている若者もいる。どこにもいられなくて苦しんでいる若者もいる。激しく同情する。

一方で。「すごい人」「かわいそうな人」前提で新成人を語ってもいけない。今日、なんとなく成人式に行こうと思っていたあなたも、行くのに躊躇していた昔の私のようなあなたも、みんな生きている。新聞の社説に説教や同情をされなくても、いつの間にか、大人の階段はのぼっている。環境が厳しい中、生きているだけで、それは素晴らしいことなのだから、成人式があってもなくても、自分を責めもせず、同情もしないで。成人式があってもなくても、大人の道は長く険しいし、成人式に行っただけで急に大人になるわけでもないのだ。


編集部より:この記事は千葉商科大学准教授、常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2021年1月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。