日本における「政治に対する信頼度」
前回の記事で、私は政治を「自分が属す社会に対する納得感を得るための権力装置」と定義した。
他方、日本における「政治に対する信頼度」は、他国との比較において「最低レベル」であることを確認した。
日本では、政治家は国民により選ばれた代表である。そうであるならば、彼らが為す政策決定について「信頼しない」という判断は、本来奇妙な現象である。
その現象の原因を探る一つの手法として、投票率比較をあげることができる。例えば、国民の政治への信頼度が高いスウェーデンの投票率は90%に近いが、日本のそれは50%前後だ。
この状況を言い換えるなら、日本では約半数の国民が、政治家の選択に参加していないということになる。ちなみに、私が議員を務める佐倉市では近年、投票率50%以下が常態化している。自分が選択していない政治家がなす決定ならば、信頼しないことは理にかなっている。しかし、政府や地方行政を信頼せず、舵取りに納得できない国民が増え続ける状況は、前回の記事で概観したとおり「非民主主義化」し、権威主義が横行する世界的政治潮流にあって、甚だ危険であるといえる。
政治家が国民の代表たりえている国「スウェーデン」の場合
政治家の判断に納得できる、という国民が多数派を占めるスウェーデンでは、「民主主義の深化」を試みる苦闘の歴史の中で、国民の政治参加を後押しするノウハウが積み上げられている。
詳述は別の機会に譲るが、項目をあげれば、政治参加の大切さを教える教育制度、若い世代の政治参加プログラム「ユースカウンシル」の広がり、地域の代表が政治家となる仕組み、政治の説明責任を前提とした透明化の徹底。それらが有効に機能するよう国民と政治家がチェックしあい、たゆまぬリビルドを繰り返している。この国を挙げての政治姿勢は、突き詰めれば「最善の政治形態」と彼らが考える「民主主義」を生きたものにするための知恵の集積であり、結果としての「国民の政治参加」と言い換えることもできる。
以下は、NHKが教育用に作成した2分少々の動画だが、スウェーデンの教育制度が、いかに民主主義の価値を教えることに重きを置いているかがわかる。また、日本のような「耳学問としての民主主義教育」ではなく、実践を通じて政治参加を促すプログラムが多くあることに驚かれることと思う。
このような社会から選ばれ、政治家となった後も市民との絶え間ない対話を続ける者がなす決定は、市民の総意であるし、納得できると考えることが自然だ。
翻って日本ではどうか?民主主義の礎であるはずの「国民の政治参加」に、議員や教育や社会が、どれだけ積極的に取り組んでいるといえるだろう?その問題に関する現在の日本は、自戒を含め、「国を挙げてほぼ無関心」といえるのではないだろうか。
では、日本において政治と国民の分断を生む最大の要因である「国民の政治参加を阻むもの」とは、いったい何なのだろうか。政治制度、社会、教育、メディアの報道姿勢などの問題を数え上げればきりがないが、次回はそれらより一つ上のレイヤーである「市民、政治家、行政」が保有する、国民の政治参加を阻害する「心理的・功利的要因」を探る。