罪を憎んで人を憎まず

Twitterを見ていますと、ここ1週間でも様々な社会ニュースを評するに、「罪を憎んで人を憎まず…犯した罪は憎んで罰しても、罪を犯した人まで憎んではならない」という(ことわざ)が使われています。他方「人を憎んで罪を憎まず」といった論調も予て同様あるわけですが、人間社会の基本的な在り方として私は「罪を憎んで人を憎まず」が非常に大事だと思っています。

世の中には、例えば一銭の金も無く腹が空いて堪らない人もいるでしょう。我国では何人(なんぴと)も「法の下に平等」であり「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、日本国憲法の第14条および第25条に記されているにも拘らずです。

では、生活苦に追われた人が、ある店で何かを盗み結果として犯罪行為に手を染めた場合、その人は本当に悪人だと言い切れるでしょうか。普通の環境下にあれば、悪人とは思えない人かもしれないわけで、勿論その罪自体は問われるべきですが、そこにやはり情状酌量的な諸要素は有り得るのではないかと思います。

人間の社会というのは、所謂「情の世界」と「知の世界」のバランスの上にある意味成り立っています。そうした中で、知の世界だけで画一的に割り切って情状酌量の余地を排して行くような社会になると、私としては何か非常に冷たいものを感じます。また、嘗てのブログ『情意を含んだ知というもの』(13年4月12日)でも指摘した通り、様々な事柄が絡み合った人間社会という複雑系においては、割り切りの知すなわち劃然(かくぜん)たる知では何も解決し得ず、判断を間違うことにもなるでしょう。

知は渾然たる全一を分かつ作用に伴って発達するものだから(中略)、われわれは知るということをわかると言う。(中略)だから知には物を分かつ、ことわるという働きがある――明治の知の巨人・安岡正篤先生は、こう述べられています。

例えば、疒垂(やまいだれ)の中に知識の知を入れて「痴(ち)…愚かなこと。また、その人」という字が出来ていますし、此の原字は知ではなく疑問の疑を疒垂に入れて「癡(ち)」という同義の字であったわけです。劃然たる知は、やはり本当の知ではありません。

人間ややもすると情よりも知の方に重きを置きがちです。しかし、プロセスとして必要なのは論理で考えて行き、最終結論を下す前に情理(…単なる論理でなしに情と合わさった理というもの)で再考することです。人間の世界は所詮「喜怒哀楽の四者を出でず」(王陽明)、それぐらい情というのは大事なのです。

ですから、罪自体は悪であり一定の刑は認められるものの、「こういう事情があったか。初犯でもあるし、執行猶予を付けておこう」といったような判断が働き得るのです。そうした類が全く無い「人を憎んで罪を憎まず」の社会よりも、ぎすぎすしないことでしょう。故に私は、「罪を憎んで人を憎まず」が人間社会の基本的な在り方だと思っています。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年2月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。