大人が大人を嗤う醜さ~森喜朗に同情した高校時代~

2021年02月11日 06:00

森氏は「人間」扱いされていなかった

筆者(1983年生まれ)が高校生の頃、報道番組で記憶に残ったのはスポーツと芸能、あとは天気ぐらいだった。事件や事故だって自分の日常に影響を及ぼさなければすぐ忘れた。もちろん政治や経済の報道は記憶に残らない。政治や経済は火星より先にある世界の話である。

ブッシュ大統領と会談する森喜朗首相(当時) Wikipediaより

しかし、例外はあった。それは「森喜朗首相(当時)に関する報道」である。これは結構、記憶に残っている(特に映像)。記憶に残っているのは森氏の失言…だけではない。

森氏を批判する、いや、「嗤う」キャスター、コメンテーターの発言・振る舞いもである。自分の父親と同年齢の大人が森氏の失言に対して満面の笑みを浮かべて「あ~森さん、また、やっちゃった~」とか声色を変えて「も~り~そ~り~」といった具合で「嗤う」のである。時にはわざとらしく肩を震わせながら、あるいはのけ反りながら「嗤う」のである。まさに徹底した侮辱である。しかもこの侮辱は森氏の首相在任中全期間(1年)に亘って続けられた。

やや誇張して言えば当時の森氏の扱いは「人間」ではなかった。「サメの脳みそ」なんてニックネーム、相手を人間扱いしているならば決して出てこない。

後で知ったが森氏は40年以上前の学生時代の性産業の利用を根拠に首相の資質が問われた。森氏を辱めるならば過去はいくらでも遡ったのである。

首相在任中の森氏はどれほど馬鹿にしてもどれほど辱めても良い存在だったのである。もはや森氏を馬鹿にしない人間が馬鹿扱いされるという次元にまで達していた。

それにしてもなぜ、政治に無関心だった高校生の筆者が森氏に関する報道の記憶だけ残っていたのだろうか。

おそらく思春期特有の自意識過剰、具体的には「他人に嗤われる」ことへの警戒が原因だろう。

自意識過剰な高校生にとって「他人に嗤われる」ことは決して他人事には思えなかったのである。思春期の少年にとって「他人に嗤われる」ことは不良の暴力よりもはるかに現実的な話だったのである。

仮に森氏への批判が真面目なものだったら、もっと言えばたとえ無内容であっても批判の態度や姿勢に最低限の品格さえあれば筆者の記憶に残らなかっただろう。

今、思い出しても「大人が大人を嗤う」光景は実に醜い。どんなに容姿が整っている人間でも「嗤う」表情は醜い。言説も嘘くさくなる。「多事争論」と言っても説得力は皆無である。二面性がある人間としか思わない。

高校生だった筆者は森氏を嗤うキャスター、コメンテーターを見て心底「ああいう大人にはなりたくない」と思ったほどである。

そして今、大人になってこの考えが誤りでなかったと確信している。

あの時、森氏を嗤った大人は本当にただ嗤うだけで終わった。確かに森氏は1年で首相を退任したが、その後も一定の影響力を確保し、政界引退後の今に至るまでそれを保持している。「嗤う」とは一過性の攻撃に過ぎなかったのである。

だから森氏のような人間が公的役職に就くことが問題だと思うなら「嗤う」ことではなく「名誉ある引退」について真剣に議論すべきである。これを議論できる人間こそが大人である。決して「嗤う」ことではない。

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