龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ

2021年02月11日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

近藤勇 Wikipediaより

長州は前年における8月18日の政変や下関で外国船を砲撃した事件のあとも、世論からはおおいに支持されていた。鳥取侯や岡山侯など慶喜の兄弟たちもそうだし、佐賀の鍋島直正公などもそうであった。

攘夷を口にしながら煮え切らない幕府への軽蔑と、何はとまれ果敢に戦いを挑んだ長州のけなげさの違いが際だっていたのである。そこに池田屋事件が起きた。

池田屋事件の日に、私は江戸にいた。このころ、尊攘派の浪士が京都に火を放って、主上を長州へ連れ去る計画をしているという噂があった。近藤勇らが近江出身の浪人古高俊太郎を捕まえて拷問してみると、その計画を白状したというが怪しいものだ。

近藤は守護職や所司代にも連絡したが、新撰組を率いて浪士が集結していた三条の池田屋に踏み込み、取り調べもせずに片端から斬殺したのである。正規の役人だとここまで手荒なことをしないが、新撰組はそういう超法規的な警察活動をするのに平気だった。まさに会津藩という警察が雇ったヤクザものであった。このとき、死んだ中にあの望月亀弥太らもいた。

新撰組の活動を、正規の警察活動というひとがいるが、とんでもない。警察ならやれない超法規活動ができるからこそ存在価値があったのだ。そして、そんな連中に京都市民が好感をもつはずない。

そうした世論を背景に長州では過激派が挙兵を主張していたが、高杉晋作や桂小五郎は慎重派だったし、久坂玄瑞も彼らの動きを押さえていた。だが、池田屋事件で一気に強硬論が優勢となり、福原越後、国司信濃、益田、久坂玄瑞らは京都へ向かい、「禁門(蛤御門)の変」(7月19日)を起こしたが敗れて多くが死んだ。

余談だが、「竜馬がゆく」には、嵐山観光に出かけた私たちが、新撰組の浪士狩りに遭遇したときのエピソードが書かれている。道いっぱいに広がって進む土方才蔵らの隊士たちをからかうように前を横切り、道ばたの子猫を抱き上げて、こんどは隊士たちの真ん中に分け入ってそのまま猫に頬ずりしながら反対方向に去っていったという話である。

これは、明治時代の伝記にあるエピソードを脚色したものだが、新撰組でなく会津藩の一隊であり、子猫は子犬だ。この元の話すらかなり脚色があるのだが、正規の公務員で無用な斬り合いなどしたくない会津藩士だったからこそ、そんな真似もありえたのであって、土佐犬よりどう猛な新撰組相手にそんな怖いことするはずない。

新撰組などと出くわしたら私は逃げた。お龍と一緒に伏見の街を歩いていたら、新撰組の隊士とでくわしてけんかを売られたことがある。私は隙を見て逃げ出したのを、お龍がうまくさばいてくれた。あとでお龍から女を置いて逃げるとはとえらく怒られた。だが、命を大事にすると言うのはそういうことなのだ。

お龍と出会ったのも、このころのことだが、そのことは、またあとで話そう。

久坂玄瑞は鷹司家で自刃、真木和泉は山崎へ逃げたもののやはり自害した。このとき、土佐からも池内蔵太、安岡金馬、中岡慎太郎らも参加し、多くの戦死者を出した。この戦いころ勝先生や私は神戸にいたが、大坂にかけつけ、さらに淀川をさかのぼって様子を伺ったりしていた。

しかも、8月5日には、四国艦隊が下関を砲撃して、またもや、撃破された。この戦争の停戦交渉は、イギリスから急ぎ帰国した伊藤博文らの助けを借りて高杉晋作が行い、土地の租借を断固拒否して名をあげた。

攘夷というと後ろ向きに聞こえるし、無謀のようでもあるが、攘夷の元祖のような吉田松陰先生が米国船に乗って米国へ行こうとされたように、攘夷主義者の視野が狭いとは限らない。実際に、欧米と現実に戦った薩長の方が彼らからも評価されることになり、維新の主役となっていったのは何も偶然でない。

逆にこのときに、幕府は四国艦隊の砲撃を邪魔することなく放置した。このことを勝先生もあきれはて怒りを爆発されたし、征長を準備する幕府に対して、まず、異国との戦いで長州を助ける方が先であろうという厳しい批判が寄せられたのである。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

過去の記事

ページの先頭に戻る↑