西和彦さん著「反省記」。
反省なんかするわけないでしょう西さんが。
破天荒で暴れん坊、ビル・ゲイツの片腕で、ビル・ゲイツと張り合って、アスキーというパンクな会社を成功させ、沈めて、なおへこたれない西さんが。
と思ったが、反省している風の半生記。
波乱万丈なり。
ぼくには恩人が何人もいます。
役所を出てMITに行くきっかけを作ってくれたのが西和彦さんで、日本で大学院を作るプロジェクトに誘ってくれたのが村井純さんで、教育デジタル化運動を立ち上げる後押しをしてくれたのが孫正義さん。
その一人が今、モーレツに反省している。
ぼくは自分史にも照らして読みました。
根っからのデジタル屋、テックおたく。湯水のようにアイディアが湧いてくる。
居酒屋に入ると、メニューの端から端まで、乱暴に注文し、赤いサインペンで割り箸の袋に次世代の通信機やら音響システムやら描いては「どやろ、どやろ」と聞いてくる。
あぁ、100ドルPC構想もそんな具合に生まれたのでした。
ソニーの大賀典夫社長、興銀の中山素平特別顧問、通産省の福川伸次次官らうんと上のかたがたから支援されていたのは経営者としての魅力もあったから。
でも、資金繰り、造反、リストラ、裏切り、本書に登場する難渋なドラマは哀しい映像にできそう。
お茶目で喧嘩っ早くて、超級のスケールなのに細部にこだわる。
その厄介な魅力は450ページの自伝では伝えきれていませんが、まぁお読みください。面白いんで。
ぼくはCSK/セガの大川功会長と絡む終盤から接点があるので、補項としてその部分だけメモします。
西さんとの初見はシャルル・ド・ゴール空港。
政府からパリに派遣されスパイをしていたぼくに、米ホワイトハウスから電話がかかってきた。
クリントン政権とデジタル政策について議論していた西さんが、官民のつなぎ役を求め「今から会いに行く」とコンコルドに乗ってきた。
95年かな。楽しい季節だった。
でも本書によれば、97年、アスキーが146億円の大赤字でリストラを徹底することに。
5月創刊の「週刊アスキー」ゼロ号にぼくは村井純さんと並んで登場するが、雑誌は大コケ。
すると西さんが「役所辞めてアスキーのゲーム部門担当せえへんか」と言ってきた。
ぼくは省庁再編の只中で、それどころじゃない。
97年末、郵政省が自治省・総務庁と合併して総務省になることで省庁再編に決着がつき、ぼくは自分の責任の処し方を考え始めていた。
同じころ西さんは大川さんに出資を依頼、12月にOKが出た。
西さんはアスキーの社長から平取に落とされ大川さんの秘書となる。
98年に入り、西さんがMITメディアラボ・ネグロポンテ所長と大川さんを仲介し、メディアと子供の研究所「MIT大川センター」を設立する案が論じられる。
大川さんはMITの提案に即答、50億円を即金で支払う。
その出資の条件に、日本から客員教授を1名迎える、という条項があったらしい。
すると西さんがぼくを「アスキーやなくて、MITの客員教授やらへんか」と誘ってきた。
自分が行かされることを懸念したのかな。
MITに研究所を作る?やります。
西麻布のワイン屋で大川さんの首実検があった。合格した。
「大川さんとサシであんなにガブガブ飲んだヤツはおらん」と後で聞かされた。
MITに渡り、ぼくはセガの特別顧問にもなって、ドリームキャストの開発にも関わった。
ゲーム機で初めて通信機能を搭載する。
その歴史的な判断は、たぶん早すぎた。
日本のeスポーツが遅れた一要因となったかもしれない。
大川さんは2001年3月、ガンとの闘いの末、850億円をセガに寄付してすっからかんで美しく亡くなった。
大川センターは間に合わなかった。
7月、西さんは100ドルPCのもととなる構想をMITに提案、大川センターの礎を築いた。
西さんの「日本先端大学」構想はリーマンショックで吹っ飛んだという。
でも、あきらめない。「成功させて大川さんにほめられたい」と書かれています。
MITの産学連携を見て日本の大学に疑問を抱いたぼくは、お先にiUを作りました。
西さんの大学構想にも何か役に立てれば、と思っております。
編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2021年2月15の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。