「母乳」を「ヒューマン・ミルク」に?

母乳は赤ちゃんの成長にとってベストといわれて久しいが、母乳に代わって粉ミルクを利用する女性が増えてきているという。粉ミルクならいつでもどこでも授乳できるというメリットがあるからだろう。ところが最近は「母乳」(Breastmilk)という表現は女性蔑視に当たるとして、今後は「ヒューマン・ミルク」(Human Milk)と呼ぶべきだと主張され出した。英国のブライトンとサセックスの両大学クリニックの産科病棟関係者は今後、性転換者に配慮するため、出産時に対してジェンダーニュートラルな用語を使用しなければならなくなったという。

(写真AC:編集部)

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大学クリニックに従事する助産師と産婦人科の医師は「母乳」という呼び方に代えて、「ヒューマン・ミルク」か「授乳中の親からのミルク」と呼ばなければならない。それだけではない。日本語で違いを表現するのは難しいが、授乳もBreastfeedingという伝統的な表現を止め、Chestfeedingと呼ばなければならないという。その上、母親は「母親」から「出産する親」に、「父親」は「親」ないしは「共同養育者」に代わるべきだというのだ。例外は、性差の相違に拘らないシスの女性だけが集まる場合に限られるというのだ。

以上は英国のメディアが報じていた内容だ。多分、上記の内容は極端な例だろう。「母乳」を「ヒューマン・ミルク」に代えるべきだと主張する人に聞いてみたい。性差を明確にする表現に何か都合が悪いのだろうか。

想像するに、人類の歴史が男性主導の世界であり、女性蔑視の社会だったことを受け、それらの過去を清算し、男女間の格差を正常化したいという考えがその根底にあるのかもしれない。「女性の権利」尊重は当然だ。その能力を性差のない社会で遺憾なく発揮できれば理想だ。女性蔑視時代の残滓があれば、それを排除しなければならないという主張も理解できるが、「母乳」を「ヒューマン・ミルク」と呼ばなければならない理由にはならないのではないか。

「母乳」は性差に基づくものではないし、女性を蔑視する表現ではないことは明らかだ。それを敢えて“ジェンダーニュートラル”な表現に代行させることは行為者の所在を不明にし、最終的には「母乳」の授乳という行為の責任をぼかすことにもなるのではないか。人間の言動には程度の差こそあれ責任が伴う。その責任の所在をあいまいにする表現は責任回避にも通じることになる。責任が伴うからこそ、その言動は評価され、相手からも感謝されるのではないか。だから、「母乳」という表現を「ヒューマン・ミルク」に代行させることは、「母乳」に伴う責任の回避だけではなく、相手(赤ちゃん)からの感謝も拒否することになる。

アルプスの小国オーストリアには、まだそこまでジェンダーニュートラルな用語は広がっていない。その代りというと少々可笑しいが、伝統的なドイツ語の挨拶、グリュス・ゴット(神に宜しく、神のご加護が)と言わないようになってきた。グリュス・ゴットではなく、通常のグーテンタークといわない限り、挨拶にも応じない大学教授が出てきている。「神のご加護が」といわれて、気持ちが悪くなる無神論者が若い世代では増えてきているというのだ。

人間の社会には、神を信じる人のほか、無神論者、不可知論者、ニヒリストなどさまざまな世界観、信仰観を有する人々が生活しているから、相手に対して一方的にグリュス・ゴットと挨拶しないほうが無難だという判断もあり得る。社会の「多様性」が叫ばれる現代、一方的な世界観、宗教観に基づく言動は慎むべきかもしれない。

問題は、積極的にグリュス・ゴットを嫌悪する人が増えてきていることだ。先述した“ジェンダー・ニュートラル”ではなく、“世界観ニュートラル”な表現とでも呼ぶべき動きだ。それらの動きには、「多様性」を支えるべき相手への「寛容さ」が欠けているケースが見られる。相手側に「多様性」を要求する以上、相手に対する「寛容さ」、「尊敬心」がなければ、その「多様性」への要求はどうしても攻撃的になってしまうのだ。

欧米大学内でジェンダー論争は大きな影響を与えている。例えば、米国には男性と女性のジェンダーだけではなく、さまざまなジェンダーに関する表現、アイデンティティーが存在する。だから、相手を呼ぶ時、注意が必要となる。最近は複数で相手を呼ぶ傾向が出てきたという。どのジェンダーか分からないからだ。間違ったジェンダー表現で話しかけたら反発されてしまう。だから、問題を回避するために複数で呼ぶ、というわけだ。

笑い話ではないが、カナダのジャスティン・トルドー首相は3年前、「Mankind(人類)ではなく、Peoplekind(ピープルカインド)と呼ぶべきだ」と主張し、メディアに報じられたことがある。

「初めに言葉があった。全ては言葉から始まった」という聖句は、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の有名な書き出し部分だ。神のロゴスから森羅万象が創造されたという意味だが、そのロゴスを自身の都合のいいように書き換えようとする人々が増えてきている。「ロゴスの混乱」は事の核心(ファクト)をぼかし、フェイクを助長させる結果ともなってきている。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年2月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。