文武という言葉があります。学問と武芸を表す言葉で日本の歴史に深く根付いています。ともに鍛錬が求められ、簡単には得られない高みであります。オリンピックもその憲章に於いて「肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である」とあります。堅い言葉で記載されていますが、スポーツを通じて崇高さを求めていくということかと思います。
選手はそれに人生をかけているわけでロシアや北朝鮮ではメダルによってその後の人生が決定されるともいえ、正しい意味でのオリンピアンの純粋なスポーツ精神があめと鞭の世界に変わり、より国家間の競争のネタとされてきたように思えます。
事実、オリンピックの歴史は必ずしも純粋ではなく、時の政治や社会情勢がその開催に大きな影響を与えてきました。1948年のロンドン大会は日本とドイツは招待されず、68年のメキシコは黒人差別問題、72年のミュンヘン五輪はアラブ問題、76年のモントリオール大会はアフリカ22カ国がボイコット、80年のモスクワ五輪はソ連のアフガン侵攻に反対して日本を含む西側諸国がボイコット、84年のロスアンジェルス大会はその報復大会でソ連と東欧がこぞってボイコットとなっています。
一方で、五輪は副次的に経済復興的な役割を果たしてきたことがあります。特に64年の東京五輪や88年のソウル、08年の北京、16年のリオデジャネイロあたりはその傾向が強かったと思います。ただ、多額の費用、そして基本的には持ち出しになるそのコスト、2週間強だけのために開催する価値観などを考えると開催国やその立候補を考える地では賛否のバトルが繰り広げられ、冬の五輪においては立候補都市そのものが極めて限られる事態となってきています。個人的には冬の五輪は継続ができなくなることも将来あり得るのではないかと思えるのです。
個人的に思うもう一つは開催要領。最大の疑問はなぜ、パラリンピックがオリンピックの後なのか、であります。一般常識的にはパラリンピックを前に持ってくるか、もしもオリパラをもっと融合させるなら完全一体化して競技ごとにオリパラをスケジュール化した方が良いと思うのです。
理由は簡単でマーケティング的思考で見ればオリンピックというメインイベントが終わり、人々の気が落ちてしまい、せっかくのパラリンピックの盛り上がりが本来あるべき形になっていないのです。多分、IOCのメンバーに偏りがあるのでしょう。ビジネスやマーケティングという観念を取り入れるべきだと思います。
また2週間のスケジュールが漫然と繰り広げられるのも進歩がないイベントです。アメリカではオリンピックより視聴率の高いアメフトの「スーパーボール」があります。なぜ、これがそれほど皆に愛されているかと言えば構成が面白いからでしょう。さすがエンタテイメントの国であります。特にハーフタイムショーが楽しみという人も多いはずで飽きさせず、熱中できるプログラムが用意されているのです。
その点、オリンピックは競技種目が多く、短い開催期間に凝縮させます。そのため、例えば出場選手一人ひとりにそこにたどり着くまでのストーリーがあるはずですが、それを紹介することすらできません。全て結果第一主義なのです。これはオリンピックそのもののマーケティング的展開が下手すぎて面白くないと断言します。
さて、ここにきて北京冬季五輪に対する風当たりが強くなってきています。アメリカのみならず、カナダが新疆ウィグルへのジェノサイドに関して下院で圧倒的多数で採択しました。中国側の報道官はカンカンになって怒っています。カナダの新聞には北京冬季五輪ボイコットの声が出ていると報じています。アメリカ、カナダ、英国あたりが騒ぎ始めているのでファイブアイズは同調し、あとどれぐらいの国がそれに従うか、という感じになってきています。
とすれば選手はどうなのよ、ということもあります。今回の東京五輪でも1年延期、更に本当に開催されるのか、という声が高まる中で選手があまりにもかわいそうなのです。今回は感染症という未経験の話ですが、政治的理由による不参加は選手にはまるで非がないのです。橋本聖子氏のように何度も出られる人は少ないわけで一度逃すとそれでチャンスは永遠に消える選手が大半であります。
個人的には五輪そのものを全面的に見直すべきだと思います。やり方、期間、コストのかけ方などあらゆる面でもう時代の流れに全く沿っていません。少し前のブログで東京五輪を1年ぐらいかけて種目別にオリンピックイヤーとして開催したらどうか、と述べました。誰からもコメントはありませんでしたが、それぐらいの大変革が必要でしょう。
はっきり申し上げます。今のオリンピックのプログラムは面白くありません。大金をかけるリターンもあまりにも少ないです。経済的波及効果は限定的です。政治や社会情勢が絡むならオリンピックそのものを止めてしまった方がいいと私は思うのです。126年前の採択に基づくやり方から全然進歩していないのはどうかと思います。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年2月26日の記事より転載させていただきました。