旧約聖書の「ヨブ記」の話をする。「ヨブ記」を読まれた読者も多いだろう。主人公のヨブはイスラエル人ではない。話も舞台もイスラエル人が住んでいた地域ではなく、中近東地域に伝わっていた民話だ。
信仰深いヨブはその土地の名士として栄えていた。神は悪魔に「見ろ、ヨブの信仰を」と自慢すると、悪魔は神に「当たり前ですよ、あなたがヨブを祝福し、恵みを与えたからです」と答えた。そこで神は「家族、家畜、財産を奪ったとしてもヨブの信仰は変わらない」と主張。それを実証するために、ヨブから一つ一つ神の祝福が奪われていった。
家庭、動物たちを次々と失い、最後はヨブ一人となった。そのヨブも総身に多くのできものができた。ヨブは当初、「私の全ての物は神が与えたものだ。だから、それを神が奪っていったとしても当然だ」と受け取り、試練に対しても平静心を保ったが、次第に苦しむ。
友人たちがヨブを訪ね、「貴方が神への信仰を失ったからだ」といってヨブを責め立てた。ヨブ自身は「神の信仰を失ってはいない」という確信があったが、友人たちは「ヨブの試練は彼が信仰を失った結果」と、ヨブを慰めるのではなく、糾弾した。神に不正を訴えたりしたが、ヨブは試練に勝利し、失った家庭や家畜を再び得た。「ヨブ記」はハッピーエンドだ。
独週刊誌シュピーゲル(2019年10月12日号)は米大統領選前にジョー・バイデン氏のこれまでの歩みを紹介し、その波乱万丈の人生を「米国のヨブ」(Amerikanischer Hiob)という呼称を付けて報じた。妻と娘を交通事故で失い、期待していた長男(ジョセフ・ロビネット・ボー・バイデン)を2015年脳腫瘍で失った。長男の葬儀から事務所に戻ってきたバイデン氏を見た仲間たちは「バイデン氏が急速に老いてしまった」と感じたという。
バイデン氏は後日、「自分に残っていた最後の傲慢さもあれでなくなってしまったよ」と述懐している。「米国のヨブ」は30歳前に上院議員に当選するなど華やかな政治人生をスタートしたが、その後は厳しい試練が待ち受けていた。そして78歳となったバイデン氏は第46代米国大統領に選出されたわけだ。「ヨブ記」と同じように、バイデン氏の人生がハッピーエンドで幕を閉じるのかはまだ分からない。
ところで、「ヨブ記」の場合、ヨブの信仰を神とサタンが試した物語というふうに受け取られているが、イェール大学の聖書学者、クリスティーネ・ヘイス教授は、「神とサタンがヨブの信仰を試練したのではない。神が天使たちとともにヨブをテストしたのだ。ヘブライ語ではサタンという言葉の前に冠詞がつけられている。それはキリスト教の悪魔を意味せず、神に仕える天使たち(悪事をする人間を見つけ出して、糾弾する検察官メンバー)を意味し、神は天使と共にヨブの信仰を試したのだ」というのだ。
ちなみに、サタンはユダヤ教からキリスト教初期時代に入って冠詞抜きで大文字で「サタン」と呼ばれるようになったが、「ヨブ記」の場合、冠詞が付いていたから、検察官の使命を持った天使たちを意味したと受け取れるわけだ。
普通の人間がサタンから直接試練を受けた場合、それを乗り越える人は少ないだろう。死の危険が伴うサタンの試練からヨブを守るために、神は先にヨブを試練したというふうに受け取れるわけだ。
ヘイス教授は、「ユダヤ教では、いいことをすれば神の報酬を受け、そうではない場合、神から罰せられるといった信仰観が支配的だったが、ヨブ記は悪いことをしていない人間も試練を受けることがあることを記述することで、従来のユダヤ教の信仰観に大きな衝撃を与えている。ヨブは試練の中でも信仰を失わず、報われなくても『正しい事は正しい』いう確信を放棄せず、モラルでニヒリズムに陥ることはなかった」と説明し、「ヨブの話は、苦境にある人に対し、安易に批判してはならないことを教えている」と述べている。
人生で試練に直面するのはヨブだけではない。英雄伝や歴史的人物の伝記を読めば分かる。彼らは人生で遭遇したさまざまな試練を克服して自身の目標を実現した人々だ。ヨブのように全てを奪われる、といった試練に直面した人もいるだろう。そのような時、恨みや辛みの一つぐらい飛び出したとしても不思議ではない。フランスの哲学者ヴォルテールは「運命は我々を導き、かつまた我々を翻弄する」と語っている。ヨブが立派なのは、運命の試練に勝利したことだ。「ヨブ記」に法律用語が頻繁に登場するのは、「正義とは何か」、「公平とは何か」、「報われない善行とは」といったテーマを扱っているからだろう。
新約聖書「マタイによる福音書」第4章によると、イエスはサタンから直接3度試練を受け、それを勝利している。イエスではないわれわれがサタンから試練を受けた場合、勝利するチャンスは少ない。それを知っている神は自ら愛する息子、娘に試練することで、サタンの直接の誘惑から逃れる道を示唆してきた。人生で誰でも試練に遭遇する。その試練は当事者をダメにするためにあるのではなく、それを克服することで、より強くなるためにある、と理解すれば、試練を乗り越えることが出来る力も得られるはずだ。
ヨブはヘブライ語では「敵」を意味するが、イエスが話していたアラム語では「悔い改める」という意味がある。ヨブは友人たちに対し、同じように批判的に考えていた自分だったと気が付き、悔い改めている。
試練を受けている人にヨブの話をしても気休めにもならないかもしれないが、片目を失った人が「僕にはもう一つの目がある」と考えて生きて行くことができれば、試練を克服できると信じている。「神は人間に耐えられない試練を与えることはない」(「コリント人への第一の手紙」第10章)という。それだけではない。「神は試練に耐えられるように、逃れる道も備えて下さる」というのだ。試練に直面している人々に思い出してほしい聖句だ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年2月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。