さらば、憧れのタイ年金生活ロングステイ

藤澤 愼二

筆者は2011年の8月にタイに移り住んだのでもう10年目になる。当時、2011年から2012年にかけては1ドルが70円台という史上最高の円高時期であった。従って、タイバーツのレートも1バーツ2円50銭前後であり、1万円で4,000バーツに交換できたこともあって、確かにタイの生活費は安いと思っていた。

もっとも、海外ロングステイを煽る業者が宣伝文句の中で、タイは物価が日本の3分の1とか5分の1とかいっていたものの、それはさすがに誇大広告であったが…。

しかし、当時のロングステイブームの中、こんな謳い文句に乗せられて、よし、自分たちも老後はタイで優雅な年金生活を送ろう、とタイでのロングステイに夢を託した人たちも多かったのだろうと思う。

図 タイバーツ・円レート推移

しかし、この為替レートの推移を見れば、それから状況が様変わりしたことがわかる。2012年末に安倍政権になって以降、急激な円の独歩安が始まった。さらに2016年からは今度はタイバーツの独歩高が始まったのである。また、ブルームバーグも2019年に東南アジア通貨の中でもっともパフォーマンスのよかった通貨がタイバーツ、つまりバーツの独歩高であったといっていて、しかもそのトレンドは今も続いている。

その結果、日本人年金生活者にとっては2つのアゲインスト、つまり円安とバーツ高により、タイ、特にバンコクでのロングステイ生活は月額20数万円の年金収入だけでは余裕のないものになってしまったのである。

ちなみに、筆者は時々バンコクのロングステイクラブの飲み会に参加する。70歳前後の人が多いのであるが、そこでよく年金や生活費の話を耳にする。聞いていると、年金だけで生活している人は余裕でタイ生活をエンジョイしているというよりも、むしろ質素な暮らしをしているように感じる。

もっとも、リタイアして守る立場に入った高齢者は、自分がいつまで生きられるのかわからない以上、できるだけ余計な出費を抑えておこうとするのはごく自然な防衛本能だと思うし、きっと将来、筆者も同じようになると思うのではあるが…。

ところで、この状況は別に日本人リタイアリーに限ったことではない。タイバーツの独歩高である以上、これは米ドルやユーロなどの他通貨に対してもバーツ高が続いているのであり、欧米人年金生活者にとってもタイは次第に住みにくくなってきている。

以前、筆者はブログの中でリタイアした欧米人たちが好んで住みたがる東南アジアの国という現地のコラム記事を紹介したのであるが、1位タイ、2位マレーシア、3位フィリピンというのがベスト3であった。しかし、そのタイでバンコクの奥座敷ともいえる人気リゾート地パタヤに住む欧米人年金生活者の多くが、ここ数年のタイバーツ高騰に伴う生活費の上昇で年金だけでは生活が苦しくなり、仕方なくもっと物価の安いベトナムやカンボジアに移っていきつつあるという現実も紹介した。

結局、日本人に限らず欧米人のリタイアリーもそうなのだが、限られた年金収入だけに頼っている人にとってはバンコクであろうとプーケットやパタヤといった海浜リゾートであろうと、タイでの生活は経済的にもう限界なのである。

数年前、日本では老後の生活に年金以外に2,000万円の金融資産が必要ということになって、話が違うと大騒ぎしていたが、もし今タイでゆとりのある優雅なロングステイ生活を過ごしたければ、今の1バーツ3円50銭の為替レートでは、月額40~50万円の定期収入、もしくは少なくとも1億円以上の金融資産がある人でないと難しいのではないかと思う。

さて、タイ人観光客がビザなしで日本に行けるようになってから、日本への旅行に人気が出てきた。しかも最初は東京や大阪という都会が中心だったのが、今は北海道などの地方都市へとリピーター人気も出てきて、このグラフのようにタイ人観光客数は増加の一途をたどり、コロナ前の2019年には131万人ものタイ人観光客が日本を訪れるようになっていた。

そこで彼らが一様に指摘するのが日本の物価の安さである。最初、彼らの先進国日本に対するイメージは、物価も世界でトップクラスに違いないというものだったようだが、いざ日本に行ってみるとバンコクとそうは変わらないことに驚く。それもあって、以降何度も日本に観光に来るようになった。

一方、タイ人の収入を見ると実はそれほど多くはない。タイ人はあまりビーフは食べずチキンやポークが大好きなので、例えば単純労働のKFC(ケンタッキー・フライド・チキン)でのアルバイトを比べてみる。日本なら高校生でも時給800円以上もらえるのに、バンコクのKFCでは時給30バーツ(100円)である。また、日本の新卒初任給の平均は21万円(6万バーツ)とタイのミドルクラス上限並みの収入なのに対し、タイの大学新卒の給料はわずか15,000バーツ(5万円)である。

では、日本人年金生活者が日本の大卒初任給程度の年金で、タイでゆとりのロングステイが可能かというと、実はそうでもない。タイの物価や生活費がほぼ日本並みに高いのに、年金収入がタイのミドルクラス並みでは、日本の地方都市や田舎で暮らす方が精神的にも金銭的にも余裕を持った生活ができるし、ゆとりある生活が目的なら何も無理して言葉や文化の違うタイに行ってわざわざ余計な苦労をしながら、しかも質素な老後生活を過ごす必要などないと筆者は思うのである。

ここに現地不動産エージェントのシティ・スマートの所得分類データがある。タイのエリートであるアッパーミドルクラスでも月収は6万バーツから多くてもせいぜい10万バーツ(20万円から35万円)までである。

実際、筆者も不動産コンサルタントという仕事の関係上、不動産デベロッパーで働く中堅社員でアッパーミドルクラスである月収6万バーツ以上のタイ人を何人か知っているが、彼らは独身であってもそんな贅沢な生活などしていない。確かに便利な都心部やミッドタウンフリンジに住み、平均的なミドルクラスよりはいい生活をしているが、毎年のように上昇する物価と自宅の1ベッドルームの住宅ローンの返済等で大して余裕などない。

そこで筆者が思うのは、日本の新卒初任給並みの年金、つまりタイのミドルクラスとアッパーミドルクラスの境界線程度の収入しかない我々のようなこれからの日本人年金生活者が、タイは発展途上国だからと甘く見て、タイ人富裕層並みの贅沢な生活を夢見ているのであれば、それはもう時代遅れの勘違いであるということだ。

先に書いたように、ゆとりのあるロングステイがしたければ月額40~50万円の収入が必要だと筆者は思うのであるが、これはタイでいえば会社経営者や役員クラスのいわゆる富裕層クラスの収入が必要ということなのである。

もっとも、タイは日本以上に貧富の差があるので、日本人のほとんどが住むスクムビットやCBD(中心部ビジネス街)でなく、中低層所得層が多く住むバンコク北部や西部の郊外に住めば、日本の年金収入でもまだ余裕のある生活ができるのかもしれない…。しかし、そういうところには日本人や欧米人はほとんど住んでおらず、しかもタイ語ができないのであれば寂しいのとフラストレーションがたまるだけで、結局疲れてしまう。

ただし、誤解してもらいたくないのであるが、筆者は別に年金生活者はタイに来るなといっているわけではない。この表題で書いた通り、「さらば、憧れのタイ年金生活ロングステイ」ということであり、これから海外で優雅な年金生活がしたいのであれば、欧米人年金生活者がタイを諦めてベトナムやカンボジアに移住していくように、日本人もタイを対象候補から除外すべき時だと思うのである。

藤澤 愼二(ふじさわ  しんじ) バンコクの不動産ブロガー兼不動産投資コンサルタント
2011年、アーリーリタイアしてバンコクに移住。前職ではドイツ銀行国際ファンドのシニアマネジャーとして、不動産ポートフォリオのアセットマネジメントを行ってきた。 現在は、ブロガーとして「タイランド太平記/バンコク コンドミニアム物語でタイの現状や不動産市場について最新情報を発信中。