手話ソングをめぐる大きな誤解

みんなで一緒に楽しむための手話ソングなのに「手話ソングは何を歌っているか分からない」。そんな聴覚障がい者の声があります。手話のことをちゃんと知っておくことで、より理解を深め、共に優しい社会にしていきませんか?

音楽を心から楽しめない聴覚障がい者

手話ソングは手話をつけて歌うもので、音楽の中の新しいジャンルとして注目され、学校の子ども達が歌ったり、ソロ歌手や歌手グループが使用したりしていることが増えてきています。日本手話という、主にろう者(聴覚障がい者の中で手話を使う人のことを指すことが多い)というマイノリティが使用している言語の存在を広く知っていただく良い機会になっています。

聴覚障がい者は手話ソングをどのように捉えているのでしょうか。

私の場合、飛行機の音がやっと聞こえるレベルの聴覚障がいを持っており、補聴器を使用しても、何か音がしているということが分かる程度の感じです。それ故、学校の音楽は、リズム感覚も音感も全くなく、苦手意識が払拭できない科目でした。ただ、自分なりに楽しめる方法はないかと模索して、音楽教室へ通って、アルトサックスを習ったりしました。補聴器も性能の良いものを購入して、色々な音楽を聞くなりトライしてみたりしました。ただ、納得できる楽しみ方がまだ分かっていなく、今も色々模索中です。そんなわけで、音楽に対して、遠巻きに接している状態です。聴覚障がいと言っても色々いて、私のようにほとんど音楽をつかめない人もいれば、ある程度つかめる人もいます。

実は、私の場合は、手話ソングを複雑な思いで眺めているのです。理由は3つあります。

理由1:文法が異なる言語が混沌としている

ろう者は、日本手話という日本語とは違う文法体系を持った言語を使用しています。その一方で、日本語の文法に当てはめた日本語対応手話というものが存在しています。このため、手話ソングは、文法がまったく異なる2つの言語が衝突した形になってしまう形が多くあります。そのため、受け手としては混乱してしまったり、変な誤解を与えてしまったりという面があります。

例えば、英語の単語を日本語の語順に並べて歌っても、それは英語の歌ではありません。それと同じことが手話ソングでは起こっています。おそらく、そのような歌を英語の母語話者が聴いても何を言っているのかわからないと思います。そこには英語の文法構造がないからです。手話ソングの問題はそこにあります。

このような訳で、日本手話を日本語にあてはめた手話ソングに違和感をもつろう者は少なからずいます。逆に、手話ソングを楽しんでいるろう者や、日本手話で手話ソングを表現するろう者もいたりと多様です。

例えば、「聾者(ろう者)の音楽」を視覚的に表現したアート・ドキュメンタリーとして音楽映画『LISTEN リッスン』(2016年)があります。公開に合わせてNPO法人インフォメーションギャップバスターが主催したトークショーに、監督の牧原依里さんと雫境(DAKEI)さんをゲストにお招きし、聞き手として「美しいこと」とは何かを追究する理論体系である美学が専門である伊藤亜紗さんにご登壇いただきました。そのとき、こんなトークがありました。

伊藤亜紗:今、ダンスと歌の違いの話が出ました。雫境さんの話では、ダンスではなく歌になるときには、言葉の要素が加わるとのことでした。そのあたり、牧原さんはどのように考えますか?

牧原依里:私の個人的な見方ですが、今回の映画の出演者を視て、この人は歌だな、この人は踊りになるな……と感じていました。「音楽」というと、曲と歌詞が組み合わさるものが「歌」、歌詞がないものが単に「音楽」と一般的には言われています。『LISTEN リッスン』の場合、「歌」も含めてすべてのものが「音楽」なのだと思います。「これは歌を表現しているのですか?」と言われると、(括弧付きの)「歌」「音楽」どちらとも言えるというのがあって、自分の中ではまだ混沌としている感じです。聴者の歌と聾者の歌は同じかというと、言葉は同じですが、見方、捉え方はずいぶん異なっているかもしれません。

聾者が奏でる無音の音楽映画『LISTEN リッスン』聾者の共同監督が語る制作背景

『LISTEN リッスン』は視覚に特化した作品ということで、観た後、様々なシーンが頭の中でリフレインするという心地よい余韻が残りました。前述したように、私は音楽を十分に理解することはできないのですが、おそらく、聴者(聞こえる人)が音楽を聴いた後に残る余韻にも通じるものがあるのではないかと思いました。

しかし、手話ソングの場合は、言語が入ってくるので、言語的な問題が絡んできます。日本語と日本手話は文法体系や音韻が異なる言語なので、手話ソングにどちらの言語が強く出るかによって、受け手の違和感が変わってくるのです。

理由2:音声言語と対等な日本手話の理解・普及を阻害する

国際的な条約(障害者権利条約)では、「言語とは、音声言語及び手話、その他の形態の非音声言語を言う」と定義されています。それに伴って、日本でも手話は音声言語と対等な言語であることの“理解と普及”が必要となっています。そのため、2つの言語境界が曖昧な手話ソングは、理解・普及の障壁となっています。

実は、今の日本には言語法(国家が領土内で用いられる言語の地位や使用に関して規定する法律)がありません。外国では多言語が存在しているため、言語法を定めている国は多く存在しています。しかし、日本は国のシステムが単一言語を前提としたものとなっており、言語法の必要性を認識してもらうには時間がかかりそうです。実は、日本人が使用する言語には日本語以外にもいくつかあり、多言語が存在していますが、マイノリティ言語のため、なかなか理解が進んでいないのが現状です。

このような背景もあり、手話ソングは手話を普及するための良いキッカケとなり得るメリットがありますが、逆に音声言語との違いが分かりにくくなり理解を阻害するというデメリットもあります。

理由3:文化の盗用の可能性がある

実は、手話ソングを聴者(聞こえる者)が行う場合は、「文化の盗用」の可能性があることはこれまでも何度か指摘されています。

「文化の盗用」の1つの例として、「着物」という言葉の盗用があります。ファッション界でアメリカの著名セレブであるキム・カーダシアンが「KIMONO」とよばれる下着ブランドを発表しました。これが文化の盗用と批判を浴び、キムはのちに「敬意を払っている」と謝罪しましたが、敬意を持っていようといなかろうと、その行為が文化的背景を尊重したものであるかという論点こそが重要です。Wikipediaは「文化の盗用」について次のように説明しています。

ある文化圏の要素を他の文化圏の者が流用する行為である。少数民族など社会的少数者の文化に対して行った場合、論争の的になりやすい。流用の対象となる文化的要素としては宗教および文化の伝統、ファッション、シンボル、言語、音楽が含まれる。
(Wikipediaより)

手話ソングは、手話に興味を持ち、振り付け的に取り入れただけで、“文化の盗用”に当てはまらないと思っている人はたくさんいると思います。しかし、先ほど挙げた批判を浴びたキム・カーダシアンの例のように、知らないうちにマイノリティの文化を傷つけたり、不快にさせたりしていれば、それは文化を尊重したとは言えません。

言語・文化を尊重しダイバーシティ&インクルージョン社会へ

手話ソングをめぐる問題は単純ではありません。私自身は、手話ソングの存在意義はあるし、手話を使用して歌っている人は新しい分野を切り開いている先駆者として、敬意を持っています。ただ、その活動において、手話話者であるろう者をリスペクトしているかどうかというところが大きなポイントだと思います。立場を尊重し、不快な感じを与えないように配慮することは、最低限必要なことです。

それによって、私のようなコミュニケーションが困難なものでも、いきいきと活躍できるダイバーシティ&インクルージョンな社会が近づくと考えています。