謝罪のニュース、最近だけでも少なくともこれだけあります。
- LINEが委託した中国の業者の個人情報へのアクセス問題
- みずほ銀行の2週間で4度のシステムトラブル
- 東電の柏崎原発のテロ対策不備
- 松井証券の社員が顧客の株式無断売買
それ以外に謝罪というほどではないですが報道ステーションのセンスのないネットCMの取り下げとお詫び等々。
日経ビジネスは毎年「謝罪の流儀」という特集を年の終わりに組み、毎月これだけ謝罪があったと報じています。何年もやっているのですから毎月それだけ目立つ謝罪が延々と繰り返されているということです。
さて、この謝罪文化について外国人は奇異な目で見る人もいるようです。「アメリカじゃ謝罪なんかしないし」と言い切ったコメントが以前、日経ビジネスにもありましたが、それは言い過ぎで謝罪する時はします。一方、韓国は人のせいにするのが得意なので謝罪は少ないと思います。ただ、トップに立ち、人のせいにできない文大統領はちょくちょく頭を下げています。また、どうにもならなくなったら自殺してしまう特殊性があり、例えば最近ではソウル市長がセクハラで自殺するといった感じでしょうか?
では日本の謝罪文化とは何なのでしょうか?
基本的に「水に流す」だと考えています。幕引きともいえるでしょう。その理由に問題を起こした本人が謝罪をするのは政治家が不正を働いた時や芸能人が麻薬で捕まった時などに限定され、企業が発した問題にその本人が出てくることはほぼ100%ないと言い切ってよいでしょう。本来であれば本人の口から謝罪を聴きたいのですが、日本の会社に於いては「社員の非は会社の非」であり、その頂点である社長など経営陣がお詫びすることで幕引きを図るのです。芝居で幕を引くことが語源ですが、ではその幕の後ろがどうなっているかは分からないのに、観客である国民は「チャン、チャン」で終わりという実はものすごく中途半端な文化なのであります。
また、フラッシュが放たれる中、起立して〇秒間、頭を下げるのがあまりにも当たり前になっていますがこれでいいのか、と疑問を持たないのか不思議なのです。マスコミもそこからの深追いはあまりせず、フォローアップ記事が時折出るだけ。つまり、多くのマスコミは問題を追及し、謝罪に追い込んだ時点で「勝ち誇り」「フラッシュをたいて」心の中で雄たけびを上げる、ということではないでしょうか?
日経ビジネスが毎年、同じ特集を延々と組めるのは謝罪文化に本当の反省がないともいえ、形だけの謝罪行事となっていることを誰も指摘しないのはなぜでしょうか?
日本の謝罪文化は時として復讐心を煽ります。記憶に新しいのは「7万円ステーキ」問題で首相が謝罪する一方、誰がそれをリークしたのか、その犯人探しをし、見つければ懲らしめるという三文芝居が行われます。企業系の謝罪も同様で「ライバル社がリークしたに違いない」「会社の経営方針に反発していた社員のあいつに違いない」といった犯人捜しであります。この文化を面白おかしくしたのが「半沢直樹」で結局土下座して謝罪しながらあのくやしさまみれの顔は心の底からの謝罪ではないことが一目瞭然に読み取れるのです。
私がタイトルを「謝罪を糧とする文化」としたのは「糧」=「活動の本源、チカラづけるもの」であり、日本の社会、ビジネスにおいて不可欠なレアメタル的存在であり、あまりたくさんあっても困るけれどないと困るというものなのでしょう。そうでないと週刊文春も上がったりになるのです。
ではどうすればよいのでしょうか?私は謝罪会見自体が芝居がかっていて大げさなのだと思います。企業が不祥事を起こした際でも「すわ、記者会見!」という「パブロフの犬」状態になっているのだと思います。内容によっては丁寧な文書とわかりやすい説明を会社のホームページに記載し、報道関係者に配布するというもっと論理的で実利的なやり方でもよいのだと思います。
また、一部からは「謝罪会見がないぞー」という声も上がるのだろうと思いますが、全体から見ればごくわずかの声をいかにも国民の声であるがごとく報じるマスコミの偏向報道がより歪ませているのだと思います。
つまり謝罪会見ほどおいしいものはないと思っているのはマスコミで自らが作り出している芝居に悦に入っているとしか思えないのであります。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年3月28日の記事より転載させていただきました。