戸籍を廃止して「イエ社会」を卒業するとき

池田 信夫

選択的夫婦別姓は、法的には大した問題ではない。1996年に法制審で別姓の選択を認める民法改正案が答申されたが、閣議決定に至らなかっただけだ。菅内閣が閣議決定して法案を国会に提出すれば、自民党の一部議員を除いて公明党も野党も賛成するので、改正できるだろう。

これは「家族の絆」とは無関係だ。日本以外に夫婦別姓を禁止している国はないが、そういう国で家族の絆がなくなったという話は聞かない。「戸籍制度がなくなる」というのも誤解で、100%夫婦別姓の台湾にも(日本以外で唯一)戸籍がある。これは日本統治時代の遺物で、韓国では廃止された。

問題は、こんな当たり前の話が、なぜ25年ももめ続けているのかということだ。かつては「日本古来の伝統だ」という説もあったが、これは保守派の歴史学者も認める通り、学問的には問題にならない。日本古来の伝統にのっとるなら、夫婦別姓を義務づけるべきだ。

自民党右派が反対している(隠れた)理由は、旧民法の「戸主」を中心とする「家」制度を守るためだが、これにも誤解がある。戸主は明治31年(1898)に初めて定められたもので、このとき夫婦同姓(実質的には妻の同姓義務化)が定められたが、これは日本の伝統に反する制度だったのだ。

夫婦同姓は明治時代に輸入したファミリーネーム

古代の姓は父系親族集団につけられる(東アジアでは普通の)記号だが、中世には武士は在地領主として地名などの苗字(氏)を名乗るようになった。これは姓とは違うイエという機能集団の記号で、自由につけることができ、百姓はつけなかった(禁じられたわけではない)。

このため江戸時代の百姓のほとんどには苗字がなかったが、明治4年に納税者を管理するため、壬申戸籍がつくられた(これが部落差別の原因になっている)。このとき苗字をつけることが義務づけられたが、当時はまだ苗字を名乗らない者も多かった。

明治9年(1870)の太政官布告で「婦女、人に嫁するも、なほ所生の氏を用ゆべき事」と定められた。「所生の氏」とは生まれたときの苗字(旧姓)だから夫婦別姓と決めたのだが、ほとんどの人は自分の苗字を知らなかったので、字の読める地主などに適当につけてもらった。

民法をつくるときも保守派は夫婦別姓を主張したが、ドイツの法律顧問は西洋のファミリーネームにすべきだと助言した。西洋派が論争に勝ち、1898年にできた民法では、すべての女性は結婚すると夫の苗字を名乗ることになった。それが今に至る夫婦同姓(正確には同氏)の起源だから、これは西洋の伝統なのだ。

夫婦同姓は、土地・財産をすべて戸主(長男)が相続する制度と一体の家父長制だった。戦後の民法改正で戸主制度は廃止されたが、夫婦同姓だけが残っていた。法制審の答申はそれを修正するテクニカルな改正だったが、神社本庁が問題にして自民党右派の議員が反対した。

夫婦同氏は男中心社会のあらわれだというのは誤解である。江戸時代までは別姓だったが、女性に苗字はなかった。北条政子は「北条家の政子」であり、源頼朝とは別の家系に所属していたが、生前には北条とも源とも名乗ったことがない。女性は明治時代に初めて苗字を名乗れるようになったのだ。

長男中心のイエ制度は中世からあった。イエは武装した農民集団だったので、そのコアとなる土地を守るために戦う長男が惣領(家長)となり、土地をすべて相続した。次三男や女性には何も権利がなかった。

一族郎党はすべて惣領に従属し、彼から土地を分けてもらって耕作した。惣領は戦士なので、親が無能な世襲の長男に相続しないで優秀な養子をとる「婿取り」も多かった。その一族をあらわす記号が苗字だった。

惣領が明治時代に民法で法制化されたのが戸主である。これが戦後「封建的だ」として廃止され、個人単位の民法になったが、このとき戸籍を残したのが混乱の原因だった。戸籍は個人を超えるイエの記号なので、個人を主権者とする新憲法とは相容れない。

夫婦同姓は「男系天皇」とは無関係

自民党の一部には「旧民法の家父長主義が日本の伝統だ」という不満があり、それが「家族の絆」という意味不明の話の背景にある。彼らの多くは「女系天皇」にも反対しているので、「男系の皇統が日本の国体だ」という思想があると思われる。

ここには二重の誤解がある。まず前述のように、日本古来の伝統は夫婦別姓なので、伝統を守れという議論は夫婦別姓反対論と矛盾する。夫婦同氏の義務化は旧民法の特殊な制度であり、それを守る意味は何もない。

第二にイエは天皇家とは異なり、血縁に依存しない能力主義の軍団だった。万世一系の天皇家という神話は中国の皇帝をまねたものだが、イエは地縁的な機能集団で、その正統化に血統を利用しただけだ。

イエは江戸時代には制度的に固定化され、人口移動が停滞した。移動が自由になった明治以降もイエ的な構造は形を変えて続き、企業にも「一家」で働く意識が強い。このように封建的な社団が現代の先進国に残っているのは珍しいが、それは血縁ではなく一族の同質性に依存する日本独特のシステムである。それが日本企業の求心力や効率性の源泉だろう。

村上泰亮はこう指摘し、丸山眞男や川島武宜などの「家」制度への批判に反論したが、それに限界があることも今や明らかだ。1990年代以降のグローバル化には、ローカルなイエの中で調整するシステムは適応できない。

日本に(人々がほとんど意識しないで)残っているイエ社会の家父長主義を卒業し、個人が自立することが最大の課題である。マイナンバーで個人を管理できる時代には、イエを制度化した戸籍は、差別の原因になるだけで有害無益である。その廃止を議論してもいいのではないか。