スエズ運河の巨大コンテナ船座礁で想起する三つの話

先月、世界最大級のコンテナ船エバーギブン号がスエズ運河で座礁し、422隻が1週間ほど待機する事件があった。スエズ運河は年間2万隻の船舶が通行する要衝、喜望峰を周るには1週間を要するという。船主が日本企業であることも話題になった。

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満潮時にタグボートで引っ張り出したらしいが、船のサイズたるや全長400mというから驚く。損害賠償の額も気になるが、損保会社が「海上」を冠する通り、海上保険の歴史は古く、著名な英国のロイズも17世末の発祥というから、本件も保険金で賄えるのだろう。

このニュースに接し、筆者がいくつか想起したことがあるので、牽強付会を覚悟してそれを書きたい。

先ずは94年の三重県での出来事。9月19日にグアム島付近で発生し、950ヘクトパスカル、最大風速40mに発達した台風26号が、夕刻、和歌山県南部に上陸した。筆者は当時、津市の南に位置する久居市の工場に勤務していた。

工場周辺は水はけが悪く、強風も予想されたため一部社員が出社し、夜を徹して警戒した。後の報道によると津市の瞬間最大風速は49mだったそうだ。幸い工場に被害はなかったが、翌朝は御殿場海岸に打ち上げられた2隻の巨大タンカーの話で持ち切りになった。

日本鋼管(現ジャパンマリンユナイテッド)津製作所で建造中だった2隻の双子タンカーが台風の強風に煽られて、近くの御殿場浜に打ち上げられたのだ。普段は休日ともなれば大アサリの網焼きに舌鼓を打つ人々で溢れる浜に巨大船2隻が屹立する様は実に壮観。

筆者も野次馬の一人になったが、間近で見る威容に驚かされた。結局、重機で砂を掘りつつタグボートで引っ張って脱出したのだが、数億の費用を要したと聞く。長さ260mの15万トン級タンカーと報道されたから、戦艦大和とほぼ同じサイズだ。

巨大タンカーといえば日章丸が印象に残っている。今日改めて調べると、62年に竣工したこの日章丸は3代目で、百田尚樹氏の「海賊と呼ばれた男」のモデルになったのが2代目らしい。サイズは全長291m、型幅43m、型深さ22.2m、喫水16.57mとある。

エバーギブン号は、全長400m、型幅58.8m、型深さ32.9m、喫水15.7mだが、史上最大のタンカーは住友重機械が79年に建造した全長458m、載貨重量56.5万トンのもので、石油貯蔵用に永久係留されている。こうした技術を持つ造船立国日本の凋落は残念至極。

次は運河の話。大洋を繋ぐ大運河といえば、多くの者がまずスエズ運河とパナマ運河に指を折るだろう。1869年にスエズ運河を開通させた元駐エジプト仏大使のレセップスは、パナマ運河の建設にも、結局は挫折したものの、大いに関与していた。

二つの運河にはスエズマックスとマナマックスという船のサイズ制限がある。スエズマックスは、幅50m、喫水上の高さ68m(橋桁の制約)で、長さ制限がないのは閘門(こうもん)のない海抜式だから。閘門とは、水路を前後の門で仕切ってプール状にし、船を上下させる仕組み。

他方、パナマ運河は運河周辺の山が高いため、山を海抜ゼロまで削らず閘門をいくつか設けて船を上下させるロック式を採用した。よってパマナマックスは閘門の制約上、長さ294m、幅32m、喫水12m、喫水上の高さ58mとなった。

パナマ運河を巡る米国の策謀もあった。今でこそ共産中国の膨張を難じるが、19世紀米国の膨張ぶりも劣らない。独立戦争でアレゲニー山脈を越えた後もインデアンを駆逐しつつ西漸、1803年にはフランスからルイジアナを買収し、全米の約3割(15州)に及ぶ広さのミシシッピ流域を手に入れた。

35年にはマニフェストディスティニーの下、テキサスへの入植者がメキシコからの独立を宣言、45年には米国に併合した。カリフォルニアは36年からの米墨戦争で得た。ロッキー以西4州とテキサスの面積は全米の約3割、直後に金も発見された。肥沃な平地を失ったメキシコは以降、貧困に喘ぐ。

その後の膨張は太平洋へも、また南北へも向かった。北はオレゴンやアラスカの買収、南と太平洋は西インド諸島と中米、そしてフィリピンを巡る米西戦争だ。英仏に次ぐ米国の貿易相手で砂糖やバナナを輸入していたキューバは、当時スペインからの独立戦争をしていた。

スペインに勝った米国はキューバとプエルトリコを属国化した。1903年のキューバ独立後もその農産物を支配した。が、米西戦争でセオドア・ルーズベルト大統領は大西洋岸と太平洋岸の遠さを実感した。ホーン岬周りで西海岸からキューバまで68日を要したのだ(「アメリカ大陸の明暗」河出文庫)。

ルーズベルトは中米のどこかで両洋を繋ぐことを考えた。候補地はニカラグアとパナマ。この地域での運河計画は古くからあったが、米国絡みは1850年の英国との共同建設条約を嚆矢とする。が、米国は1901年にこれを破棄、単独でこの地域で運河を建設する条約を英国と結ぶ。

一方、レセップスは1881年、パナマ運河会社を設けて建設に着手した。7年後の完成予定だったが、山を無視してスエズと同じ海抜式を採り、工事は難航した。風土病が猖獗する中、途中でロック式に切り替えたものの人も金も欠乏、1903年、88歳のレセップスは失意のうちに手を引く。

こうした中、1901年のマッキンリー暗殺によって副大統領から大統領になったルーズベルトは、パナマを領有するコロンビアとの運河建設の条約を模索した。が、多額の代償を首肯しない米国に対し、コロンビアは条約を拒否した。

一計を案じたルーズベルトはパナマ住民の反乱を使嗾し、独立運動を起こさせた。そうしておいてパナマ両岸に戦艦を派遣、一部の兵士を上陸させてコロンビア政府を威圧した。斯くて03年11月、パナマ共和国が誕生、米国はこれを承認するや運河建設の協定を結ぶ。

パナマ運河は14年8月15日に完成、第一次大戦勃発の2週間後だった。パナマ運河が2度の世界大戦で米国にもたらした便益は計り知れない。日露戦争でポーツマス講和の仲介をしたルーズベルトだが、同時に日本に対抗するオレンジ計画を立てた。日本をどう見ていたか知れる。

目下、バイデン政権を揺るがすメキシコ経由の難民は、当時の米国が翻弄した中米のニカラグア、グアテマラ、ホンジュラスなどから押し寄せている。また、台湾では米国もパナマの様には独立を謀れないようだ。ふとした出来事から歴史が連綿と繋がっていることに気付かされる。