意地というもの

いつか一角の人物になる人は、小さい頃から色々その特徴が出ているようです。その中から一つ二つ取り出してみると、意地とか凝り性とかいうものも、その一つと言って良いと思います。そしてその人物が偉大であればあるほど、この二つの素質は、大きかったと言えるでしょう。そもそも偉人と言われるほどの人間は、何よりも、偉大な生命力を持った人でなくてはならぬはずです。しかもそれが、真に偉人と呼ばれるためには、その偉大な生命力が、ことごとく純化せられねばならぬのです。」

上記は、10年以上も前になりますが嘗てTwitterで御紹介した明治の知の巨人・森信三先生の言葉です。また先生は続けて次のように言われています「意地というものは、凝り性とは違って対他的なものですから、そのままだと人との間に摩擦を引き起こす元になります。しかし同時に、それを自覚することにより浄めて行けば、人間の人格を形成する上で重要な一要素ともなり、人格の偉大さを形成する根本動力に転ずると言えましょう。」

森先生が言われている通り、意地というのは対他的側面があり、「そのままだと人との間に摩擦を引き起こす元にな」ることは間違いありません。しかし意地が無い人間の多くは、確固たる主体性あるいは独立自尊という精神に欠けている部分があるように私は思っています。

優れた人格を形成する上で、主体性および独立自尊ということは物凄く大事です。真に主体的に生きている人は、自己の絶対を尊ぶ「自尊」の世界にあって、「互尊」の感情を他の自尊の人に対し抱くものであり、人格形成上プラスになることは間違いありません。

私は、自分の人格(人徳)を磨くことに関わる「四常」、即ち「仁義礼智」を磨いて人間力を高めるべくは、孔子が実践した「四を絶つ」ことが大事だと思っています。「意なく、必なく、固なく、我なし」(『論語』子罕第九の四)ということで、孔子は「根拠のないかんぐり、思い込んで無理を通す、頑固に意地を張る、自分本位に正しいと思うといった事」を無くすのが大事だと考えて、「意必固我」を意識的に行わぬよう己を律してきました。

昔から「意地を通せば窮屈だ」(『草枕』冒頭)と言われますが、それは程度問題だと思います。意地を持っていることの本質がどこにあるかと言うと、それが意地を通すだけの値打ちある事柄か否かということだと思います。どうでも良い些細な事柄に対し、何が何でも意地を張って行くものではありません。その対象をきちっと見極めて行かねばならないのです。意地というのは「対他的なものですから(中略)、それを自覚することにより浄めて行けば」、意地を通す対象も限定されてくるのだろうと理解しています。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年4月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。