「学校教育」をマクロに考える

教員である筆者が学校教育の必要性をあれこれ述べたところで、それほど説得力はないでしょう。そこで学校教育がこれまで担ってきたものを確認し、仮に学校教育がなくなった場合、児童生徒の年齢で補う必要があるかないかを判別し、必要な場合に肩代わりできるのか調べることで、学校教育の是非について言及したいと思います。

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これまで学校教育が担ってきたものは、次の5つ分類されるでしょう。

  • 知識・教養の習得 …… 学習指導(授業・補習等)、講話、HR活動など
  • 人間教育・道徳教育(人格形成)…… 授業、HR活動、部活動、講話、学校行事など
  • 心身の健康増進 …… 授業(保健体育)、保健指導、教育相談、部活動、学校行事など
  • キャリア教育 …… 進路(進学・就職)指導全般、授業、講話など
  • しつけ、集団行動 …… 生活指導全般、部活動、学校行事など

このうちⒶ~Ⓓは、学校以外でも誰かが担うべきものですし、Ⓔは低年齢ほど補う必要がありそうです(集団行動は判断が分かれます)。

そこで学校の肩代わりができそうな組織(人)を列記してみます。

  • Ⓐ → 家庭、塾、講演会・研修会、自学自習(本、WEB等)
  • Ⓑ → 家庭、地域、外部の活動団体、講演会・研修会、自学(本、WEB等)
  • Ⓒ → スポーツクラブ、医療機関、家庭、カウンセラー等
  • Ⓓ → 学習塾・受験産業、家庭、知人(先輩・OB等)、自学(本、WEB等)
  • Ⓔ → 家庭、地域、外部の活動団体等

Ⓐは、経済力など家庭環境格差はあるものの、概ね学校の役割を補えると考えます。

Ⓑは、宗教が倫理的規定となるような欧米と異なり、以前は家庭や地域が道徳観・伝統・慣習に基づき行ってきましたが、今やその地位は低下し、多くを学校が担っているのが実態です。

Ⓒは、ある程度は外部機関が補えますが、中学高校の部活動は健康増進だけでなくⒷ・Ⓔも担っています。部活動が学校教育の実質的な柱の1つである現状を踏まえたうえで、はたしてどこが肩代わりできるか検証する必要があります。

Ⓓの最大のネックは、日本の社会構造と国民の意識です。日本では「何を身に着けたか? 」ではなく、「どこの学校を出たか? 」という学歴信仰がまだ根強く残っています。社内の学閥、新卒一括採用、残存する年功序列・終身雇用制、保護者の学歴・大企業志向が無くならない限り、大学の偏差値信仰も変わらず、連動して高校の外部評価も進路実績に偏ることになります。現状のまま学校教育(進路指導)が無くなれば、大都市圏ならまだしも、塾が少なく高校の進路指導に多くを頼ってきた遠隔地ほど打撃は大きく、地域間格差はますます広がるでしょう。

確かに中学・高等学校がⒹ(特に受験指導)に傾倒するのは、本来の教育の姿ではありませんが、現実には日本の社会構造・学歴信仰を変えない限り、進路指導に特化したキャリア教育はなくせないばかりか、推薦入学や学歴取得のメリットからも学校をなくすこと自体難しいでしょう。

Ⓔは、Ⓑ同様本来家庭や地域が中心となるべきですが、今や多くを学校が担っている状況で、肩代わりできるところがあるのか不安です。現代は「しつけや集団行動など必要ない」との考えもありますが、いまだに集団の和、協力、同調を重んじる日本社会にどこまで受け容れてもらえるのでしょうか? しつけ・集団行動教育を全く受けず社会に出た場合、周りの空気が全く読めず、仲間外れやいじめのターゲットとされる恐れはないでしょうか? コロナ禍の「自粛警察」のように、表向きは個人の自由を尊重しても現実の大人社会の受け容れる度量が狭いことが問題であり、日本人の意識改革が進まなければ結局子供が犠牲になってしまうのです。

さて、教育評論家や著名人が語る「教育論」は理想の姿であり、特に能力・意欲のある子供達の自由度・選択肢を広げることに異論はありません。しかしながら、どこまで子供たちの実態を把握されているのでしょうか? 人は得てして自分の通った学校、育った環境を基準にして「教育」を語る傾向があります。著名な方はすべてとは言いませんが、有名高校・大学出身の高学歴者が多いのではないでしょうか。

筆者も進学校出身ですが、これまで超教育困難校や定時制高校で、学習意欲が乏しく感情のコントローが苦手な、劣悪な家庭環境で育った生徒を数多く見てきました。12の異なるタイプの高校に勤めてわかったことは、世の中には「適応力や判断力に乏しく、公的な学校教育の一斉指導や強制指導で救われる子供たち」が一定数いるという現実です。つまり著名人の「教育論」はすべての子供を網羅するわけではないのです。

まとめますと、学校教育は学習の機会・選択肢を増やすなど、今後思い切った改革が望まれます。そのためには、まず社会システムの改編、国民・保護者の意識改革が行われ、大学の在り方が変わり、それに連動して小・中・高等学校の学校教育改革が行われる流れ(順序)が必要です。ⒷⒺは家庭・地域・NPOの活動団体がどの程度機能するかがカギですが、どういう形であれ、教育の底辺を支える公的な学校教育は欠かせません。

いずれにしましても学校教育は、個々の現象にとらわれ情緒的に行われるのではなく、学校・家庭・地域社会間でどのように役割分担できるのか、国民全体でのマクロな議論が必要ではないでしょうか?


編集部より:この記事は投稿募集のテーマで寄せられた記事です。アゴラでは、学校教育の是非について、さまざまな立場の皆さまからのご意見を募集します。原稿は、アゴラ編集部([email protected]にお送りください。