キリスト像の「高さ」を競う時代

クリスチャン・トゥデイ(ChristianToday)を久しぶりに読んで気が付いたことがある。世界各地でキリスト像が建立されているという記事が多いのだ。世界は新型コロナウイルスの感染拡大(パンデミー)でその対応に追われている中、コロナ感染の予防とはならないと思うが、キリスト像の建設が一種のブームなのだ。キリスト教のリバイバルか、それとも一部の篤志家たちの一過性の熱意に過ぎないのだろうか。

リオデジャネイロの「コルコバードのキリスト像」 Wikipediaより

▲リオデジャネイロの「コルコバードのキリスト像」(ウィキぺディアから)

キリスト像といえば、ブラジルのリオデジャネイロの像を直ぐに思い出す人が多いだろう。コルコバードの丘から街を俯瞰しながら手をひろげ、人々を抱擁するキリスト像は素晴らしい。ブラジルを訪問した観光客はその像を一度は訪ねるだろう。約90年前に建てられた「コルコバードのキリスト像」は観光客を惹き寄せているのだ。

ところで、どの世界でもそうだが、リオデジャネイロのキリスト像より高い像を建設して観光地にしたいと考える政治家、経済人、著名人が出てきても不思議ではない。クリスチャン・トゥデー(4月22日)によると、ブラジル南部リオグランデ・ド・スル州エンカンタドでリオデジャネイロのキリスト像より大きな像の建設が2019年から進められているというのだ。

リオデジャネイロのキリスト像は土台を入れて高さは約38m、両手の幅は約28mだが、建設中のキリスト像はそれより約5m高い43m、両手の幅は36mという。コルコバードのキリスト像より一回り大きい。それだけではない。像の内部にはエレベーターが設置されて、像の頂上まで上がれるという。筆者は40年前、米国のニューヨークで「自由の女神」像を訪問し、像の内部の狭いらせん階段を登って展望台まで上がったことがある。

新キリスト像の建設工費は約35万ドルで、全額寄付で賄われるという。新キリスト像は今年中に完成予定で、完成すればポーランド西部シフィエボジンのキリスト像「クライスト・ザ・キング」(高さ52m)、そしてインドネシアのスラウェシ島のキリスト像に次いで、世界3番目に高いキリスト像となる。

不思議に思ったのは、ブラジル人がどうして世界一高いキリスト像ではなく、世界3位のキリスト像の建設で満足しているのかということだ。キリスト像の建設は決して高さの競争ではないが、この点、少ししっくりこないと考えた時、メキシコの人気俳優であり敬虔なカトリック信者であるエドゥアルド・ベラステーギ氏が、同国東部タマウリパス州シウダービクトリアに、巨大なキリスト像を建設する計画という。殺人事件が多発する同地に「平和のキリスト」と命名する像を建設するというのだ。像の高さは76・8mだ。明らかにポーランドのキリスト像の高さを凌ぐ世界一高いキリスト像となるという構想だ。

クリスチャン・トゥデイは、「メキシコ・ニュース・デイリーによると、地元の土地開発業者らは、建設予定地一帯を特別イベントなどで最大1万人動員可能な観光スポットにしようと計画している。予定地周辺には、教会やレストラン、商店街やコンベンションセンター、巡礼者用の休憩所、ホテル、円形劇場、手芸品市場、駅、住宅街などの建設も構想されている」と伝えている。取らぬ狸の皮算用の感じはするが、世界一のキリスト像がいつ完成するかの情報はまだ聞かない。

同紙2019年1月24日付によると、世界にある有名なキリスト像としては、シリアの山上に平和の象徴として建てられたブロンズ製のキリスト像(高さ約32m)、ボリビアの平和のキリスト像(高さ34m)、イタリアのマラテアにある「クリスト・レデントール」(救世主キリスト)、ベトナムのブンタウに立つ「ブンタウのキリスト」、スペインのバレンシアの「クリスト・デル・オテロ」、ナイジェリアの「ジーザス・デ・グレイテスト」(高さ約8・5m)などだ。ここでは紹介されていないが、世界各地で無数の大小のキリスト像が建立されているだろう。

それぞれのキリスト像はその地域の信者たちを守護し、信仰を鼓舞する一方、紛争・犯罪の終焉を祈願して建立されたものが多いが、同時に非常に人間的な業だが、「キリスト像の高さ」が競われているわけだ。

人は現状に満足せず、常に向上し、発展を願い、そのために競争もする。キリスト像を建設する時も多くの関係者、建築家は世界一のキリスト像を建立したいという野心を抱くものだ。天にまで届く高い塔を建設するという旧約聖書創世記(11章)の「バベルの塔」の話を思い出す。

キリスト教会の最大の祝日「復活祭」が終わり、来月23日は「聖霊降誕祭」(ペンテコステ)を迎える。イエスはこの地上のキリスト像の高さ競争を見てどのように感じるだろうか。キリスト像建立は「より速く、より高く、より強く」のオリンピックのスポーツ競争ではない。また、旧約聖書の預言者ゼカリヤは「私をつかわされた主は、“私はあなたの中に住む”と言われる」(ゼカリヤ書2章)と語っている。すなわち、神を崇拝するのに教会や像は必要ではないというのだ。その一方、キリスト像を建立する人々を擁護するつもりはないが、イエス像、聖母マリア像、聖画のように、目に見えて仰ぐ対象は信仰生活では必要かもしれない。少なくとも、神が私たちの中に引っ越して住まわれるまではだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年4月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。