自由・人権・平等の美名の裏にあるもの

唐突であるが筆者は皇室を深く敬愛するものである。だからといって皇室を「絶対」とは思わない。これは歴史の教訓である。戦前、皇室を絶対化した極右によって言論の自由が委縮し、それが無謀な戦争を招き敗戦し皇室は廃絶寸前までいった。

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こうした歴史がある以上、皇室を絶対と思わないほうが皇室のためである。

何かを絶対と思う感情が人を視野狭窄に陥らせ無用な摩擦を引き起こし逆に危機を招くというのは珍しい話ではない。我々の日常でも大なり小なり目撃されるのではないか。

例えば家族を「絶対」と思う感情が「守る」の意志を肥大化させ家族に近づくものに攻撃的になってしまい、逆に家族への偏見・脅威を招くなどである。

皇室にしろ家族にしろ本当に相手の幸福を願うならば絶対化を避け常に適切な距離を図ることだろう。適切な距離を図ることによって相手を正当に評価し建設的な助言・支援も可能となる。筆者はここ数年の政治は対象への距離感を欠き、絶対を求める風潮が強くなっているのでないかと感じる。
具体的には立憲主義を守るのが当然の前提であるとか、憲法11条及び97条に規定された「侵すことのできない永久の権利」の文言や差別は悪を殊更、強調する風潮である。

もちろん、立憲主義は守られるべきだし基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」だろう。差別もまた悪である。

しかし、筆者はここで「異論なし。その通りだ!立憲主義と基本的人権を守ろう。差別を根絶しよう」では立憲主義も基本的人権も守れないし、差別もなくならないと考える。この後に「いや、しかし…」という疑問が続くことが重要だと考える。

具体的にどんな疑問が続くのかというと、やや不真面目になるが「立憲主義は観念的過ぎる」とか「侵すことのできない永久の権利とは仰々しい」と「皆が差別しあえば誰も差別とは言わなくなるのでは?」といった疑問である。

疑問を持たないとは思考停止のことである。思考停止の先にあるのは宗教的な規制論であり「人権を守る」とか「差別がない社会を目指す」の名目で他人の成果物を審査・規制する組織が設置されるだけである。差別を巡る議論はこうした組織の設置の危険性を孕んでいないだろうか。

筆者がこうした懸念を持つのは今の野党に説得・対話を通じて多数派を形成する意志と能力が乏しいと感じるからである。絶対への傾倒は低コストである。多数派形成能力が乏しい者ほど絶対に傾倒しやすいのではないか。

立憲民主党・日本共産党は立憲主義・反差別・ジェンダー平等を絶対と掲げ、それに反することが如何におかしいか強調していないだろうか。美名の言葉の裏にある排他性にあまりにも無頓着ではないだろうか。

憲法記念日を迎えた今週くらいは自由・人権・平等の重要性を強調する言葉の裏にある排他性に関心を寄せても良いだろう。