新羅は日本人が創った国かもしれないが逆はない

「日中韓三国興亡史」(さくら舎)では、韓国のルーツについて、いろんな角度から論じているが、今回は新羅がどうして生まれた国かの部分のさわりを紹介する。

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半島南部が「韓」という名で意識しされだしたのは、紀元前後からであるが、詳しい記述は、倭国についてと同様に、三世紀の「魏志東夷伝」によってということになる。どこまで信用していいのかわからないのは、邪馬台国についてと同じだ。

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邪馬台国に魏の使節が行った三世紀中頃、半島南部は、馬韓、弁韓、辰韓にわかれ、それぞれがさらに数十の小国に分割されていた。馬韓からはのちに百済が出てくるが、それはまた別の機会に書く。

「弁韓」は、のちの任那である。言語は馬韓とは違い辰韓に似ていたが、倭人に似て民度が高いと書いてある。また、鉄の生産が盛んで、通貨代わりにも使っていたほどだ。

ただし、鉄を産出するから軍事的な優位があったはずで、日本が半島を支配できるはずがないというのは珍説だ。

鉄の産地が軍事的優位を占めたとは限らず、それなら、日本の製鉄先進地域だった出雲は、大和を征服し、尼子は毛利に、毛利は織田に勝っていたはず。鉄は脆いのでかなり技術が改良されないと、青銅製の武器に優越せず、秦は青銅の武器で鉄の武器の国々を統一した。

「辰韓」については、秦の人々が半島に亡命してきてこの地を与えられたので中国北西部の風俗や言葉に似ていると書いているが、どうとっていいかよく分からない。いずれにせよ、馬韓の月志国の辰王に属していたこともあるとかいうが、群小国のうち斯蘆国が有力になり、これが新羅として成長していく。

新羅のルーツは不明であるが、建国神話では、慶州地方の六つの部族がリーダーを探していたところ、青白い光の卵があり、この卵から生まれたのが、初代の王である朴赫居世だという。

三つある王家が縁組みしながら王位についたが、第四代王の昔脱解は、多婆那国(但馬か丹後)の王子で、海に捨てられ、半島の海岸に打ち上げられて助けられ、第二代の王の婿となり国王となったという。

建国者の朴赫居世に仕えた宰相である瓠公も日本人である。日本神話でも素戔嗚尊も新羅に行ったことがあることになっているが、先進国だった日本人が新羅地方に進出して建国に大きな役割を果たしたということは間違いあるまい。

なにしろ、新羅の正史にそう書いてあるのだ。一方、逆は、新羅の王子だった天日槍が日本に帰化したなどに留まり、日本の支配層が新羅から来たという伝承は一切日本にも半島にもない。

皇室の先祖は半島から来たという人がいるが、伝承も考古学的根拠もない話を取り上げるなら、いかなる学説も創り放題になる。

首都だった金城(慶州)のうち王城のある月城地区は、瓠公が持っていた土地を昔脱解王が開発したものだ。

というわけで、新羅は日本人が建国したか、日本人が支配層の重要な一部を占めていたことは確実である一方、日本語と近い関係にある朝鮮語のルーツである新羅語をはじめて話した人たちが、いかなる系統の民族なのかは、ほとんど手がかりはないし、日本の建国に新羅の人たちが関与していた可能性は、ないことは証明できないが、文献的にはいっさい痕跡はないし、限りなくゼロに近い。