人生と食事は味わい、楽しまなければ損である

黒坂岳央(くろさか たけを)です。

日本は高度経済成長期のただ中にある頃、「人生に意味はない」と、人前で口に出すことが憚られる時期だったように思う。「そんなことをいうのは命の冒涜だ」とか「生きていれば必ずいいことがある。しっかり生きろ」といった反論が返ってきた。当時は誰もが「今より、より良い明日」を期待しながら生きていける、そんな時代だっただろう。

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しかし、ここへ来てその論調に変化の兆しが出てきた。今は誰もが生き方に惑う時代になり、どことなく経済成長や、人類の進化の限界点が見えてきたように感じる。そして「人生に意味はない」という主張は、そんな今の時代に比較的受け入れられるようになったと感じる。有名人の中にも「人生に意味はない」と若者へ説く人物も出て来た。

筆者は「人生は徹底的に無意味だ」と思っている。だがこれは「意味はないから、楽しむ必要はない」「どうせ死ぬのだから頑張っても意味はない」などと言っているつもりはない。むしろまったく逆で、「人生は無意味だからこそ、徹底的に楽しみを味わい尽くす。その上で死ぬべきだ」という考えを持っている。

「人生に意味はない。だから頑張ったり楽しもうとするのはムダ」とニヒリズムに浸る人へ、筆者が思考して行き着いた最終見解を本稿を通じてお伝えしたい。

「意味」という字に隠された真実

「意味」という漢字には「味」という字が入っている。このことを筆者なりに勝手に解釈をさせてもらうと、「意味」という言葉には「味わう」という意味合いが込められているのではないか?ということだ。

たとえば「食事」という行為について考えて頂きたい。あなたは食事をする際、「どうせ数時間後に体外へ排出されるのだから、食事なんてすべて栄養チューブかサプリメントだけでいい」と思うだろうか?いや、そう考える人は極めて少数派だろう。ほとんどの人にとっての食事とは、できるだけおいしいものを選んで食べ、一緒に食事をして楽しい人と過ごしたいと思うはずなのだ。

本来、食事をすることの本質は、生命が生存する上で必須となる行為のはず。それなのに人が食事という行為に期待するのは、エネルギーや栄養を摂取する意味合いだけではないのは明らかである。もとい、おいしい想いをして楽しむ部分にこそ、食の真価を見出す人は多いだろう。

我々の周囲の食事を見てもらいたい。おいしい焼き加減や味付けの料理や、甘いデザート、そしてコーヒーやお酒など、明らかに生命維持に直結しないもので溢れかえっている。多くの人が嗜好品に魅了されているのが、何よりのその状況証拠だ。

「人生は無意味」と割り切るから楽しめる

繰り返しだが人生は無意味だ。そしてこの前提があるからこそ、人生は楽しめる。

人生は本来無意味なのだから、誰もがやがて老い、いつか生命活動を止めて必ず死ぬ。何をしても、そして何をしなくても生まれた後は、一定時間が経過することで筆者もあなたもみんな死ぬ。でもどうせなら、死に至るまでの時間は苦しいより楽しい方が良いに決まっている。それは「せっかく同じ食事をするなら、おいしいものを食べたい」という考え方と本質的には同じだ。それ故に、人生は無意味だからこそ楽しさを追求して、生きている間は楽しい時間で埋め尽くした方が良いという考えだ。

せっかくなら、人生も食事も味わいなければもったいない。「意味」という漢字に「味」という言葉が入っているのは、不思議なめぐり合わせに感じるが、偶然とも思えないのである。

 

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ビジネスジャーナリスト
シカゴの大学へ留学し会計学を学ぶ。大学卒業後、ブルームバーグLP、セブン&アイ、コカ・コーラボトラーズジャパン勤務を経て独立。フルーツギフトのビジネスに乗り出し、「高級フルーツギフト水菓子 肥後庵」を運営。経営者や医師などエグゼクティブの顧客にも利用されている。本業の傍ら、ビジネスジャーナリストとしても情報発信中。