五輪中止論議:いつから日本は無責任国家になり果てた

日本の国益を毀損しかねない東京五輪の中止論議について書く気になったのは、研究を自費出版したほどの徳川慶喜好きの友人と、先日こんなやり取りをしたからだ。

友人:慶喜の追補版、8月に出るよ。・・最近、安倍の露出が増えたが再登板はどうかね?

私:家近教授は慶喜が天皇崇拝者と言ってるよ。・・安倍と池江の復活は去年から待ってるが、任期を継いだ菅に義理を立てるだろう。池江はスゴイな。

友人:家近には追補版も贈るつもりだが、慶喜は国益を守りたかったんだ。

私:国益を守るには天皇が要る。けど、陛下の大事は御身より国民だからやっぱり国益か。・・池江のSNSに五輪辞退を促す書き込み殺到らしい。彼女のコメントがまた見事。辞退なら小室圭に促せと言いたいぜ。

共産党などに支援され、都知事選に「出ては負け」している宇都宮弁護士が立ち上げた東京五輪中止を求めるサイトに、数日で20万を超える署名があったと8日に報じられた。前日には、大病を克服し五輪切符を手にした池江璃花子のSNSに辞退を求める書き込みが殺到したとの記事が載った。

宇都宮けんじ氏公式HPより

日本には思想信条や言論の自由があるから、東京五輪を中止すべきと思うのも、中止を求める署名活動をするも自由だ。が、代表選手に辞退を求めるのは筋違いというもの。書き込みたいと思う方は、その前に池江選手のコメントを読んで欲しい。何と素晴らしいコメントか、筆者はこの若者を尊敬する。

私も、他の選手もきっとオリンピックがあってもなくても、決まったことは受け入れ、やるならもちろん全力で、ないなら次に向けて、頑張るだけだと思っています。(略)私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません。(略)それを選手個人に当てるのはとても苦しいです。(略)頑張っている選手をどんな状況になっても暖かく見守っていてほしいなと思います。

東京開催が決まった8年前の歓喜と、同時に負った開催地としての責任の重さを思えば、招致を求めておきながら中止を言い出すなど無責任の極み、これほど国益を損なうことはない。まして決めるのはIOCで、日本はそれを尊重する立場だ。だから筆者は中止を求める声が出るなど夢想だにしなかった。

中止を求める理由は唯一コロナ禍のようだ。が、欧米やインド・ブラジルなどと比べ、日本は感染者も死者も格段に少ない。かつ外国からの代表団数万人は、まず間違いなく検査陰性のワクチン接種者だ。ファイザーも6日、IOCと無償提供を契約した。無観客だから五輪観戦目的の観光客も来ない。

よって、五輪関係の入国者が感染源になる可能性は極めて低く、五輪があろうとなかろうと国内のコロナ感染状況はそれに左右はされまい。従って、五輪用の医療体制の整備も特別のことは要らないだろうけれど、コロナ病床と医療従事者の拡充は、五輪の有無に関わりなく進めるべきことだ。

国会で菅総理が述べた7月末までに1日百万人ワクチンを接種するとの目標に、野党やワイドショーが達成は無理と声高に叫ぶ。そういうご意見を持つのは自由だが、五輪と同様に、どうしたら開催できるか、どうしたら一日も早く接種が進められるかなどについての議論をこそ深めるべきだろう。

さて、なぜ数日で20万もの中止署名が集まるのか考えて、筆者は共産主義的な革命思想に辿り着いた。左派メディアに煽られ、多くが知らぬ間に所謂「コロナ脳」になってしまった。獄中転向した共産党指導者で漢文の造詣も深かった河上肇の「自叙伝」(岩波文庫)の次の一説を読み、その感を強くした。

私はマルクス主義者として立っていた当時でも、かつて日本国を忘れたり日本人を嫌ったりしたことはない。寧ろ日本人全体の幸福、日本国家の隆盛を念とすればこそ、私は一日も早くこの国をソヴィエト組織に改造せんことを熱望したのである。戦争の真最中に自国の敗戦を希望したからといって、それは愛国者でないとは限らない。一概に人がそう思うのは、階級国家の本質を科学的に把握していないからのことである。資本主義国を支配している主人公は、資本主義階級である。ところが戦争が始まって事態が常軌を失って来ると、(略)まるで政治能力を失ってしまって、行き辺りばったり、思い付きのでたらめをやり出し、自分自身で大衆の信頼を失うような羽目に陥ることがある。(略)そしてそれは即ち革命の成功のための最上の時機が到来したことを意味するのである。

河上は下線部で「敗戦を希望するのは非国民」との考えを覆し、革命を志す上ではむしろ「愛国者」だと言う。この一文を「コロナ禍に東京五輪の中止を求めたからといって、それは愛国者でないとは限らない」と読み換えると、現状は政府が「政治能力を失って」いると「コロナ脳」には思えるということになる。

が、日本のコロナ感染者や死者の数が今のところ、欧米や印伯に比べ「さざ波」程度なのは事実だし、初めての事態であるがための混乱や朝令暮改も各国政府と大同小異で、日本政府が「政治能力を失って」いる状況ではない。だからこそ革命を目指す者は、ここぞとばかりコロナ禍を革命成功の時機の到来にしようと必死なのだろう。

五輪開催が国民の命を危うくするとの根拠のない前提に立って、国民の命と五輪開催とどちらが大事かなどと、どう答えようが上げ足を取るつもりの二者択一を総理に迫るのもその一つか。総理は「選手らの行動範囲を宿泊施設や競技会場に限定し、一般の日本国民との接触を回避する」、「ルールに違反した場合は参加資格を剥奪する」との方針を示して理解を求めた。これで十分ではないか。

池江選手と同じく難病で一線を退いた安倍前総理の露出は、友人のいう通りここ最近増えた。治療薬が奏効し持病が寛解しつつあるという。が、筆者は3月30日に「桜」での不起訴処分が秘書らに下されたことがきっかけであったろうと思っている。一つのけじめがついたということ。

河上肇の一文に絡めれば、モリもカケもまた昨年春の検察人事問題も、革命成功のための時機に投ぜられた可能性が高いと筆者は感じる。なぜなら、東京大学准教授の分析によれば池江選手のSNSへの極めて短期間の集中的な書き込みの手法が、検察人事問題でのそれを酷似しているらしいからだ。

「桜」不起訴の前日29日には、バイデンとの会談を控えた菅総理と50分間面談したが、これは助言を求めた総理の訪問に応じたもの。それよりも、これが半年ぶりの面会だったとの方が驚いた。余計な口出しを控えたことは、残りの任期を託した菅総理への信頼の証ではなかろうか。

講演やインタビューや番組出演での発言には、「コロナ禍で増税はダメ」、「情報組織が必要」、「国会議員は国民を信じて改憲を」、「菅総理を一議員として支える」、「オールジャパンで対応すれは(東京五輪を)開催できる」などがある。特に「国民を信じて」と「オールジャパン」の二言にはその信条が滲む。

安倍さんと池江選手の大病からの復活は、多くの日本国民に勇気を与えている。が、東京五輪の開催がもたらす勇気はコロナ禍の国際社会へのものでもある。五輪招致を求めた日本には、万全を期してこれを開催する責任があることを、我々日本人は忘れてはならない。