オーストリアの精神分析学の創設者ジークムント・フロイト(1875~1939年)はスイス出身のカール・グスタフ・ユング(1875~1961年)が台頭してきた時、「これでユダヤ人以外の精神分析学者が出てきた」と歓迎したという。学者の世界では精神分析学は「ユダヤ人の学問」と久しく呼ばれていたから、ユダヤ人以外で優秀な学者ユングが出て活躍する姿を喜んだというわけだ。
ユングは1907年、フロイトと知り合いとなり、親交を深めていったが、その後、理論的な違いなどからフロイトと袂を分かつた。国際精神分析協会が1911年に創設された時、その初代会長はフロイトではなく、ユングだった。その理由はユダヤ人以外から会長を選ぶことが願われていたからだといわれている。
ところで、フロイトが生涯考え続けてきたテーマは「なぜユダヤ人は嫌われ、常に迫害され続けるのか」という問題だった。彼が最も関心を持っていた聖書の人物はモーセだ。60万人のイスラエル人を奴隷として苦役されていたエジプトから“神の約束の地”カナンに導いていった人物だ。旧約聖書「出エジプト記」の主人公だ。
フロイト自身は1938年、ナチス・ドイツ軍の迫害を逃れ、英国に移住、その1年後、末期ガンのため亡くなった。彼が自身のライフ・テーマの答えを見つけたのか否かは知らないし、それに関連した著作は聞かない。ユダヤ人のフロイトは死ぬ時まで「なぜユダヤ人は……」と考え続けていたのだろう。
彼の精神分析学はそのテーマを追求するために始まったのではないか。彼の精神分析学は人間が無意識の世界で考えている内容を引き出すことで精神的な病を癒していく。その一つは「夢判断」だ。夢の世界に含まれる人間の本源の願い、声を引き出すことで、患者の無意識の世界を分析していく。夢はそのための絶好の材料となるわけだ。
参考までに、当方はこのコラム欄で不思議な夢の解釈を試みた話を書いた。一つの夢ではポップ界の王(King of Pop)マイケル・ジャクソンが登場し、当方はネバーランドにいるという設定で始まる(「ちょっとフロイト流の『夢判断』」2012年10月22日参考)、もう一つの夢は「レオポルト1世が現れた」2013年6月29日参考)だ。当方はマイケル・ジャクソンのファンではない。彼が急死した時(2009年6月25日)、メディア報道を通じてその存在を知った程度だ。レオポルト1世の場合、夢に出てきて初めてその存在を知った。夢の中では誰から説明を受けなくても、彼がマイケルであり、レオポルト1世だと知っているのだ。「夢の世界」には独自のルールと法則が支配しているのを感じる。
話をフロイトのライフ・テーマに戻す。興味深い指摘を聞いた。ユダヤ人を約束の地カナンに導いたヤハウェ(神)はモーセに絶対的信仰を求め、異教の神への敵愾心を露わにした。すなわち、唯一神教はモーセ時代に生まれたわけだ。同時に、ユダヤ人への迫害が始まった。換言すれば、ユダヤ民族の唯一神信仰が多神教や異教の神を信じる他の多くの民族から迫害される結果をもたらしたというのだ。ユダヤ人が世界の金融界を支配しているからだとか、金銭問題で汚いといった中傷誹謗はフェイクとして大袈裟に後日生まれてきたもので、その発端はユダヤ人の唯一神信仰にあった。それ故に、フロイトはモーセとその時代に強い関心を持ったのだろう。
ユダヤ人の神は『妬む神』と呼ばれる。バアルなどの異教の神を嫌い、異教徒を絶対に受け入れない。旧約聖書の話はユダヤの神と他民族の神との戦いの記録だ。ソロモン王も結局、異教の神を信じる異国の妻たちの影響もあって異教の神を受け入れていった。その結果、ソロモン王の死後、王国は分断されていったわけだ。
世界の民族はそれぞれ独自の神、独自の信仰を有している。ユダヤ人はエジプトの奴隷生活から解放してくれたヤハウェ(唯一神)を信じ、他の神を排斥してきたことから、他の神を信じる多くの民族はユダヤ人の神に対し憎しみ、恨みを抱き、歴史を通じてユダヤ人迫害の土壌を広げていったのではないか、という解釈だ。実際、ユダヤ民族は常に少数派であり、ユダヤ人の唯一神を嫌う民族は多数派で世界を覆っているから、ユダヤ人は他民族、他宗派から迫害される運命を避けられなくなったのだ。
アブラハムを“信仰の祖”とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教は唯一神を拝する宗教だ。その「神」はいずれも「妬む神」だ。神学者ヤン・アスマン教授は、「唯一の神への信仰( Monotheismus) には潜在的な暴力性が内包されている。絶対的に唯一の神を信じる者は他の唯一神教を信じる者を容認できない。そこで暴力で打ち負かそうとする」と説明する。そして、「イスラム教に見られる暴力性はその教えの非政治化(政治と宗教の分離)が遅れているからだ。他の唯一神教のユダヤ教やキリスト教は久しく非政治化を実施してきた」と指摘し、イスラム教の暴力性を排除するためには抜本的な非政治化コンセプトの確立が急務と主張している(「『妬む神』を拝する唯一神教の問題点」2014年8月12日参考)。
アスマン教授は、「唯一神教は『妬む神』を信仰し、他宗派に対し排他的で、攻撃的である」と説いているが、唯一神教の中でユダヤ教だけが久しく迫害される理由については言及していない。ユダヤ教に内包され、キリスト教とイスラム教にはあまり見られない、他宗教、他民族から嫌われる理由は何だろうか。
キリスト教、イスラム教は積極的にその教義(イエスの福音、ムハンマドのコーランの教え)を広げるために伝道活動するが、ユダヤ教は宣教しない。そして母親がユダヤ人でない場合、生粋のユダヤ人とは見なされない。血統と伝統を重視する民族で、神が選んだ民族という選民意識が強い。アーリア人種の優位性を主張してきたヒトラーが、血統重視主義を貫くユダヤ民族に敵意を向けたのも決して偶然ではなかったわけだ。
ユダヤ民族が迫害され、ディアスポラ(離散)となった最大の理由がそのユダヤ人の唯一神教への信仰であり、血統重視にあったとすれば、ユダヤ人は「この世の神」(多数の異教の神々)に迎えられるために信仰を捨てることは絶対にないだろう。それ故に、ユダヤ人への迫害は今後とも続くと予想せざるを得ないのだ。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年5月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。