ここまで、民主主義国家における国民は、治者としての市民と被治者としての住民という2つの立場を持っていて、市民の代表である政府を監視する住民の代理人がメディアであること、そしてその形態には、公設代理人としての公共メディア、私設代理人としての商業メディア、政府の広報機関としての国営メディアの3種類があることを説明してきました。ここでは、国民と政治とメディアの関係を考える上で興味深いいくつかの事例を交えて、より理解を深めていきたいと思います。
「メディアは廃案に向けて声を上げ続けるべき」
2015年の安保法制の一連の議論において、TBS『NEWS23』は一貫して安保法制に反対の立場で報道を行ってきました。衆議院の採決の当日および参議院の採決の前日、番組はそれぞれ次のように報じました。
<事例1a>TBS『NEWS23』 2015/07/15
岸井成格氏:憲法と国民を軽視した数による暴挙です。私も50年近く日本の政治を取材してきましたけれども、これまでにない戦後憲政史上の汚点と言わざるを得ないと思います。(中略)これは古今東西歴史で権力というのは必ず腐敗し、ときに暴走するという言い伝えがあるわけですよね。そういう中で一番心配なのは、本当に国民が思っていないこと、あるいはいずれ総合的に判断するとして、何も決めていない非常に曖昧な言葉が氾濫していてとても国民の耳には届かないことが多いんですよね。その中で唯一「アメリカから要請があれば、自衛隊をいつでもどこへでも出しますよ。自衛隊を派遣しますよ」ということだけは非常にはっきりしてきた。やっぱりこういうことで憲法学者や国民の声に耳を傾けない、自由な言論を認めないということは、本当に権力の暴走と言わざるを得ないと私は思いますね。
<事例1b>TBS『NEWS23』 2015/09/16
岸井成格氏:私は一貫して「権力の暴走」と言ってきましたけれど、今夜採決かという、まさに歴史的な瞬間を迎えようとしています。(中略)これだけ今VTR(国会前デモ)であったように反対の声がどんどん拡がっているんですね。どうも政府与党はそういう声に耳を傾けようという気が「ある」のか「ない」のか。私はどうも見ていると「ない」ような感じがして、非常にそこは気になりますよね。(中略)この法案というのは憲法違反である疑いが強くなってきたわけですね。しかも同時にアメリカとの軍事一体化が進むということですから、やっぱりメディアとしても廃案に向けて声を上げ続けるべきだと私は思いますね。
長期間にわたりあからさまな情報操作・印象操作・心理操作を行って安保法案に反対したTBSテレビ『NEWS23』の偏向報道は明確な放送法4条違反であり、常軌を逸したメディアの暴走といえるものでした。その思考の核心部分が発現したのが、衆参両院での採決に際しての報道でした。
番組のメインキャスターの岸井氏は「憲法と国民を軽視した数による暴挙」「戦後憲政史上の汚点」「権力の暴走」というような【反証可能性 falsifiability】のない主観的な【認識 cognition】を並べて政権を徹底的に糾弾しました。しかしながら、岸井氏の認識は客観的な【事実 fact】とは一致しません。
安保法案の採決は、安倍政権が「憲法解釈の一部変更による集団的自衛権の行使」という2012年の衆院選の公約を、3年間にわたる与党協議・閣議決定・法案化・国会審議といった手続きを慎重に進めた結果として、国会議員の提案によって行われたものです。政府与党は、この間に2回の国政選挙で安保法制を争点化し、いずれも大勝しています。このようなコンテクストにおいて、政権が公約を実現させるよう法整備の手続きを進展させなければ、それは「権力の暴走」どころか「権力の不作為」であり、逆に市民に対する裏切りになるといえます。
与党は法案通過後の国政選挙でも大勝したことから、岸井氏が主張するように「権力が腐敗し暴走した」と多くの市民が認識していないことは明らかです。そもそも住民の代理人であるメディアが、傲慢にも住民の民意を勝手に騙って「廃案に向けて声を上げ続けるべき」と住民の電波を使って住民を扇動したことは、憲法と住民を軽視した勘違いも甚だしい暴挙であり、戦後メディア史上の汚点と言わざるを得ません。見方を変えれば、住民の代理人を騙った【活動家 activist】のグループが、法案阻止のために放送システムを不正使用して大衆操作を行ったと解釈することもできます。
ちなみに、法案通過から現在に至るまで、北朝鮮が弾頭ミサイル実験を活発化させ、中国が尖閣諸島周辺海域をしばしば領域侵犯するなど、東アジア情勢は緊迫化しています。そんな中で日米同盟を強化する安保法制を2015年に成立させたことは、政権のファインプレイであり、逆にもし安保法制が成立していなかったら、対北防衛の基軸であるGSOMIAの締結はなく、対中防衛の基軸となるインド太平洋戦略からも蚊帳の外という危機的状況に置かれていた可能性もあります。
住民の命に係わる国家のセキュリティ対策の議論に際して、このような特定の思想を持つ人物が住民の代理を騙って大衆操作を続けていたことは、極めて重大な問題であったと言えます。
「私の最大の味方はメディア」
「小池劇場」を主導したテレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』が最初に小池百合子氏を大きく取り上げ始めたのは、東京都知事選の中盤でした。
<事例2>テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』 2016/07/21
小池百合子東京都知事候補:私をお選びいただけるのであれば、私の最大の味方はメディアになると思います。メディアのみなさんがいろいろとチェックしていただく。それとともに進めていきたいと思います。(中略)私はまず、豊洲市場の関係者の方々から直接お話を伺ったうえで、(豊洲移転を)どうすればいいかということについて答えを出していきたいと思っています。(開場延期については)お話次第ですね。あり得る。その可能性もあると思います。
都知事に当選すれば強大な独任制の権力者となる小池氏が、その監視役であると同時に強大な第四の権力を持つメディアを味方にするというのは、極めて非常識な談合宣言でしたが、すべてはここから始まりました。このインタビューにおいて、小池氏は、自分はメディアにとって都合がよい候補で築地市場の豊洲移転の延期もあり得ることを、もともと移転に批判的な意見を持っていた同番組の出演者であるテレビ朝日・玉川徹氏にシグナリングしています。
このあと選挙情勢が一変し、優勢と見られていた鳥越俊太郎候補が大失速するとともに、緑の衣装を身に着けたイメージ選挙を展開していた小池氏へ都民の支持が移りました。選挙戦序盤はあからさまに鳥越候補を絶賛していた玉川氏ですが、報道スタンスは一変し「有権者はちゃんと見ている」という発言で小池氏支持・鳥越氏不支持を示唆しました。そして選挙の結果、小池氏が圧倒的大差で都知事に選出されたのは周知の事実です。
メディアは、「都民ファースト」「情報公開」「ワイズ・スペンディング」といった聞こえのよい3つのスローガンを掲げる小池氏を初登頂の日からジャンヌ・ダルクのように大絶賛するとともに、その政敵を「黒い頭のネズミ」として徹底的にこき下ろす『小池劇場』の放映を開始しました。この勧善懲悪ドラマによって絶対的な権力を得た小池都知事は暴走し、住民と業者が大迷惑した豊洲移転の延期を独断で宣言した上で都税を無駄遣いしました。まさに3つのスローガンの真逆を行く都政運営です。
この間にワイドショーは、権力を監視することを放棄して権力にへつらうことで市民を騙し、都知事のイエスマン集団を都議選で大量当選させる原動力となりました。日本の商業メディアは視聴率と引き換えに政権側の「都営メディア」のように機能し、市民を大衆操作することで小池都知事が君臨する民主的な独裁都市を誕生させたのです。これは、民主主義とメディア(2)の国営メディアの項で説明した民主主義化における独裁政治の発生メカニズムに他なりません。
「記者は国民の代表」
東京新聞は2019年2月20日付朝刊で同紙社会部の望月衣塑子記者の官房長官会見における質問を巡り、内閣府を批判する次のような社説を発表しました。
<事例3>東京新聞「検証と見解/官邸側の本紙記者質問制限と申し入れ」2019/02/20
首相官邸で首相官邸にある記者クラブの内閣記者会に上村秀紀・官邸報道室長名の文書が出されたのは昨年12月28日。その2日前に行われた菅義偉官房長官の定例記者会見で、本紙社会部の望月衣塑子記者が行った質問に「事実誤認」があったとしていた。
「東京新聞側にこれまで累次にわたり、事実に基づかない質問は厳に慎むようお願いしてきた」。会見はインターネットで配信されているため「視聴者に誤った事実認識を拡散させることになりかねない」とし、「記者の度重なる問題行為は深刻なものと捉えており、問題意識の共有をお願いしたい」とあった。記者会側は「記者の質問を制限することはできない」と官邸側に伝えた。(中略)
同じ日付で長谷川栄一・内閣広報官から臼田局長に抗議文書も送られてきた。(中略)長谷川広報官の申し入れ文書は「事実に基づかない質問は慎んでほしい」という抗議だけでなく、記者会見は意見や官房長官に要請をする場ではないとして、質問や表現の自由を制限するものもある。(中略)
森友学園に対する国有地払い下げを巡る決裁文書の改ざん問題で、本紙記者が昨年六月、財務省と近畿財務局との協議に関し「メモがあるかどうかの調査をしていただきたい」と述べると、長谷川氏から「記者会見は官房長官に要請できる場と考えるか」と文書で質問があった。「記者は国民の代表として質問に臨んでいる。メモの存否は多くの国民の関心事であり、特に問題ないと考える」と答えると、「国民の代表とは選挙で選ばれた国会議員。貴社は民間企業であり、会見に出る記者は貴社内の人事で定められている」と反論があった。(中略)
■会見は国民のためにある 編集局長・臼田信行
官房長官会見での望月記者の質問を巡り、官邸から九回にわたり「事実に基づかない質問は慎んでほしい」などと申し入れがありました。一部質問には確かに事実の誤りがあり、指摘を認めました。しかし、多くは受け入れがたい内容です。(中略)記者会見はだれのためにあるのか。権力者のためでもなければメディアのためでもなく、それは国民のためにあります。記者会見は民主主義の根幹である国民の「知る権利」に応えるための重要な機会です。だからこそ、権力が記者の質問を妨げたり規制したりすることなどあってはならない。私たちは、これまで同様、可能な限り事実に基づいて質問と取材を続けていきます。
望月記者が官房長官会見でどのような類の質問を繰り返していたかについてはアゴラ記事を参照してください。「記者は国民の代表として質問に臨んでいる」という東京新聞の回答は、民主主義とメディア(1)で述べた民主主義におけるメディアの役割を理解していない傲慢な勘違いに他なりません
官房長官は市民の代表の一人であり、メディアは住民から対価を受けて住民の代わりに住民が必要とする行為を代行する住民の代理人です。市民の代表の背後には市民の権力が存在しますが、住民の代理人の背後には権力は存在しません。そもそも、商業メディアである東京新聞は住民の代理人となることを任意に申し出ている暫定的な私設代理人に過ぎず、住民は暫定的な私設代理人に代表を付託した事実はありません。
住民のための政府の会見において、代理人は望月記者のような主観的認識や反事実を前提とする自分本位の「意見」や「要請」を厳に慎むべきであり、客観的事実を前提とする住民本位の「質問」を行うべきです。それができない暫定代理人は代理人とは言えず、代理人でもない者が住民のための記者会見に出席するなど言語道断です。何様のつもりかわかりませんが、「報道しない自由」を濫用するメディアが、都合がよい時だけ住民の「知る権利」を人質にとるのも言語道断です。
「煽っているって言われるくらいでいい」
ワイドショーのコメンテーターとしてコロナの不安を煽っているかのような発言を続けてきたテレビ朝日・玉川徹氏が、実際にコロナの不安をテレビで煽ってきたことを公式に表明しました。
<事例4>テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』 2020/12/14
テレビ朝日・玉川徹氏:やっぱり感染症に関しては、煽ってるって言われるくらいでいいんじゃないかってずっと思ってやってきたんですよ。結果として「アイツは煽るばっかりで、そんなに大したことは起きなかったな」っていうんだったら、それの方がいいって思ってる。(中略)「あの時にもっと強い手を打っておけばよかった」って思うよりは1年後に「ちょっと強めすぎたかもしれないけど、それで感染者も死者も少ないし、高止まりが続かなくててよかったね」という方がいい。(中略)この話をするときに自殺の話が出てくることに凄い違和感がある。一体その人達がどういう理由で自殺したかもわからない。(中略)自殺の人達をこういうふうに使うのは凄く違和感がある。
玉川氏は、コロナの感染リスクについては扇動してまでもゼロリスクを目指す自粛対策を肯定する一方で、自粛による機会損失で不安を感じた人達の自殺リスクについては考えることに違和感を持つという完全に矛盾したことを主張しています。
実際問題として、経済の状況を反映する失業率と自殺数には高い相関性があり、2020年の後半にはコロナで失業率が高くなった女性の自殺数が急増したことも事実です。このような事実の存在に対して玉川氏のリスク回避の考え方を適用すれば「ちょっと自粛が弱すぎたかもしれないけど、それで失業者も自殺者も少ないし、高止まりが続かなくてよかったね」という方がいいことになります。ゼロリスクを目指す場合、世の中のすべての森羅万象に対してリスク回避をしなければ矛盾を来たすことになるのです。
コロナの不安を煽ってきた玉川氏は、コロナの死者については絶対に許容しない一方で、自殺者については特に問題視しなくてもよいという倫理観を視聴者に洗脳してきたに過ぎません。このことは、住民の代理人であるはずの商業メディアが、傲慢にも住民の命を無責任に選別する権力となっていることを意味します。まさにメディアの暴走に他なりません。このように、何の権力もないはずのテレビ局の一従業員が、テレビ放送をプロパガンダの道具として確信的に利用することで大衆操作を行うこともできるのです。
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民主主義体制における住民の代理人であるはずのメディアは、しばしば確信的に市民を大衆操作することで政治を支配しようとします。これが第四の権力の正体です。誰も彼らに権力を付託していないにも拘わらず、彼らは権力を負託されているかのように装って暴走するのです。このようなメディアの暴走を止めるには、市民が、そして住民がメディア・リテラシーを手にするしかないのです。