過去との向き合い方

ダイヤモンド・オンラインに昨年9月、『成功する人は、「過去」とどう向き合っているのか?』と題された記事がありました。「成功する人は過去を冷静に見つめ直そうとし、成功しない人は過去をネガティブにとらえて自分を苦しめている」とのことですが、私は自分自身の過去などというのは基本何度も振返ってみても大概意味がないと思っています。

当該記事には「過去を正確にとらえられなければ、前進はできません」と書かれています。しかし、そもそも現在その過去を正確に捉えることが出来るのでしょうか。また仮に捉えられたとして、それは前進に不可欠なものでしょうか。過去正しかった事柄が、未来でも正しいとは言い切れません。私は寧ろ、英国元首相ウィンストン・チャーチルが「If we open a quarrel between the past and the present, we shall find we have lost the future」と上手く述べているように、過去に固執する者は未来を失う結果になるのではないかと考えます。

例えば7年も前になりますが私は、『人は判断力の欠如で結婚し、忍耐力の欠如で離婚し、記憶力の欠如で再婚する』という、フランスの金言集にある面白い言葉を題し、ブログを書いたことがあります。「過去を冷静に見つめ直」した結果、若気の至りで此の人と結婚したのは「判断力の欠如」でありました、等々思ってみたところで仕方がないでしょう。その時の御縁というものがある上に、「忍耐力の欠如」から結婚以上のエネルギーを費やす離婚に敢えて踏み切ったとしても、その先ベターな未来が待っているかどうかも分かりません。

『夫婦喧嘩は犬も食わぬ』(13年10月18日)というブログの結語として、私は次のように述べたこともあります――男と女が全く違う存在である以上、お互いが誠を尽くしても様々なことで衝突するということは往々にしてあるわけで、それ故その衝突による破局を避けるためには、どうしても忍耐の忍というものが必要になります。仏教でも忍辱(にんにく:耐え忍ぶこと)というように、忍ということを悟るための一つの修行としているのであって、結婚生活を偕老同穴になるまで持続させ、味わい深い夫婦関係を築いて行こうと思うならば、お互いが忍ということも心掛けて行かねばならないのだろうと思っています。

上記の例に限らずに突き詰めて考えて行きますと、自分自身の「過去を冷静に見つめ直」すとは一体何なのか、というふうにも思わざるを得なく感じられます。勿論、当ブログでも幾度も指摘している通り、歴史には学ばねばならないことは言うまでもありません。確信や見識といったものを涵養するには、やはり歴史・哲学に学び、それを踏まえた上で時局・時代を認識し、そして現代的諸問題に対し自ら評価・解釈して行くことが必要であろうと思います。従って私自身でもこれまで歴史を知ろうと大いに努めてきているわけですが、他方自分自身の過去については何度も振返らぬようした方が良いのではないかと考えています。

過去を振返るにしろ例えば不惑の年、『人生の折り返し地点』である40歳位で、来し方を大いに反省し行く末に思い馳せて方向性を定めて行く、といった類が良いでしょう。それはあくまでも一つの節目において、未来をどうするかという為の過去への振返りであって、それ以外のものではないと思います。我々は今という過去から時時教訓を得て、常に前を向いて歩いたら良いのです。過ぎ去った事柄に囚われ不安を持ったり、一種の恐れを抱いたりしてはいけません。過去に拘る者は未来を失うのです。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年5月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。