現実にある立脚点から、「多様性」を見つめ直す冷静かつ丁寧な議論を
こんにちは、音喜多駿(参議院議員 / 東京都選出)です。
ここまで「多様性」を巡る議論に注目が集まっているのは前向きなことである反面、極論に走らずに冷静かつ丁寧な議論が必要なタームなのではないかと感じている次第です。
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「この法案は関係がある人には 素晴らしいものですが 、関係ない人には今までどおりの人生が続くだけです」
内容・立論の流れ・熱量ともに素晴らしいものであり、私も初めて見たときは感動しました。まだ未視聴の方はぜひご覧頂きたい。
しかし同性婚と異なり、トランスジェンダーの方々のトイレや更衣室の使用がより難しいのは、「関係ない人には今までどおりの人生が続くだけ」と言い切れない点です。
性自認が女性で、女性として生活をしているとわかっていても、やはり生物学的な異性がトイレ・パーソナルスペースに入るのは怖い。許容できない。
こうした懸念を持つ人がいるのは致し方のないことであると思います。
しかしだからといって、「生物学的な区分け以外は論外だ」とシャットダウンして良いのかと言われれば、それもまた違うでしょう。
特にSNS上の論調を見ていると、どうにも
「性自認で自分らしく生きられる、それを社会が許容するのはもはや世界スタンダード。それが理解できない人たちは差別」
VS
「自己認識で性別を変えられたら、悪用して犯罪が多発する。特に女性は恐怖に晒される。生物学的な区分けを勝手に越えることは許されない、我儘だ」
という極論同士がぶつかり合っているように思います。
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トランスジェンダーを巡る諸課題については、欧米でもまだ頻繁に議論になる、極めてセンシティブで不確定な分野であると認識しています。
※以下、ここでは今回の訴訟判決の流れからトランス「女性」を例に取ります。
当事者の方々の「トランス女性も女性だ。女性とまったく同じような生き方・生活をしたい」という気持ちは痛いほどわかります。そう思うのは傲慢でもなんでもなく、とても自然なことです。
その感情に私たちと社会は、できる限り寄り添うべきだとも思います。
一方で、「女性のパーソナルスペースには、生物学的な女性以外は入ってほしくない」と思う人がいるのも、差別意識ではなく自然なことであり、現実問題として完全に消すことはできないという点から議論をスタートしていかなければなりません。
そこで、トランス女性と女性(シス女性)の主張・利益と、そして社会全体の価値観が、どこまで折り合えるか。
「誰でもトイレ」の数を増やす。女性トイレを「(生物学的な)女性だけのトイレ」と「トランス女性も含めて使えるトイレ」の二種類にさらにわけて整備する、時間帯で区切って分けてみるetc…
こうした解決策は、あらゆる方面から不平不満が吹き出ると思います。
「なぜ私は女性トイレがすべて、いつでも使えないのか。これでは差別が残っているではないか」
「どうして一部の人のために、コストをかけてさらにトイレを作らねばならぬのか」
「時間帯で区切られて不便になった」
どの意見も筋が通っており、その通りです。
ただ、真に多様性のある社会とは「誰もが思うがままに快適に生きられる社会」ではなく「誰もがちょっとずつ不愉快なものを許容する社会」であるとすれば、このあたりが『落とし所』になる可能性があるはずです。
書いてて本当に難しいことなのですが、こういう議論からいま、私たちは逃げてはいけない気がしています。
まず「多様性」という言葉の本当の意味と恐ろしさ、そして尊さを、おそらく全員が整理をし直して共有するべきなのです。
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私自身、これは色々と迷い、考えながら書いています。
「迷っている」「考え中」なんて現職議員が言ってはいけないのかもしれませんが、本当に難しいです。
「当事者の声を聞け」と言われても、当事者だって千差万別。L・G・B・Tそれぞれ立場や考えが異なるし、トランスの中だけでも色々な考えをお持ちの方々がいます。
私たちは理解しあえるのか?多様性とは、差別とは何か。朝井リョウの挑戦作「正欲」から考える
https://otokitashun.com/blog/daily/26205/
少し前に書いたこちらのブログは、多くの反響をいただきました。
多様性という手にあまるほど大変な概念に、それでも多様性社会を目指すべきなのだという信念を持ち、引き続き考え行動を続けてまいります。
それでは、また明日。