「海老蔵歌舞伎」は中国人差別演出ではない

濱田 浩一郎

京都市の南座で6月4日に開幕した「海老蔵歌舞伎」で、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんが中心となって創作された新作「KABUKU」の演出の一部に変更があったという。それは、5月に開かれた東京・明治座公演で、観客等から「人種差別ではないか」「中国人と感染症を結び付ける差別的な演出だ」といった指摘がインターネット上で広まっている場面であった。

京都府京都市東山区の南座 Wikipediaより

「KABUKU」の舞台は、幕末から地獄・現代の東京へと展開していくもの。東京公演で指摘があったのは、地獄を描く場面で、それは、外国人同士がいがみ合うなかで中国人と推察される人間が疫病を広めたなどと罵られるものだという。これをネット上では「差別だ」として非難の声が上がっていたのだ。それで、京都公演では、中国人とされる人は登場しない演出に変更になったのである。

松竹は「明治座上演時に頂いたお客様の声を受けて、内容を変更して上演いたしました」とコメントしたという。私はこのような形の変更は良くないと思う。クレームがあれば、何でもかんでもすぐに変更してしまうのが、最近の日本社会の悪いところのように感じる(もちろん、悪いものは悪った、おかしなことはおかしかったと潔く謝ることも時には大事である)。変更したということは「差別的意図をもって、このシーンを作りました」と認めるようなものではないか。では、実際に差別的意図をもって、このシーンが作られたかというと、そうではないだろう。

松竹は「異なる価値観を認め、多様性を尊重するという趣旨のことを風刺的に描こうとした演出意図でしたが、一部本来の演出意図と異なる捉え方を招く箇所」があったので、変更をしたと主張しているからだ。ならば、尚更、変更する必要はないのではないか。演出をどう捉えるかは、人により千差万別。今回も「差別的意図は感じられない」との意見や声もあった。「一部本来の演出意図と異なる捉え方を招く箇所」があったからといって変更していたらキリがないだろう。

第一、歴史を振り返ると、中国は疫病の発生、拡大を繰り返してきたことは間違いない(例えば黄文雄『新型肺炎 感染爆発と中国の真実 中国五千年の疫病史が物語るパンデミック』徳間書店、飯島渉『感染症の中国史』中央公論新社などを参照)。

『感染症の中国史』の内容紹介には「雲南の地方病であったペストは、香港や満洲に拡大し、世界中に広がることになる」と記されているし、江戸時代後期(1822年)に日本で最初に流行したコレラ(コレラはガンジス川流域の風土病)は、中国(清)経由で沖縄、九州に上陸したと考えられているのだ。そうした歴史的背景や今回の新型コロナの件を踏まえると、それほど違和感のある演出ではないと私は思う。

何より、これは舞台(創作)なのだから、それほど目クジラを立てることはないだろう。今回のようなことが立て続けに起こると、終いには我々は何も表現できなくなってしまうのではないか。それを防ぐには、クレーム=すぐに削除的な行為ではなく、言うべきことは言う姿勢と、安易に屈しない態度こそ大切であろうと思う。