タイで成功する中国のワクチン外交
シンガポールのThe Southeast Asian Institute of Educationのレポートによると、中国がワクチン外交のソフトパワーを使って、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、ベトナムのインドシナ半島5か国を懐柔した結果、これらの国々では「コロナウイルス発端の“犯罪者”であった中国が、今や“英雄”になってしまっている」ということだ。
しかし、これについては、バンコクに住む筆者にとってどうも違和感がある。周辺のタイ人で中国のワクチン供給に対してそれほど中国礼賛をする人はいないように思えるし、かといって中国を犯罪者扱いにもしていないように思えるからだ。
ところで、最近はコロナウイルスの発生起源についてこれまでの自然由来説から武漢ウイルス研究所起源説に傾きつつある欧米諸国であるが、実はこれについては日本同様、タイでもあまり大きなニュースになってない。
タイも韓国と同様、インドシナ半島という中国と陸続きの半島国家であることから、歴史的にも経済的にも中国との繋がりが深いというのもあって、敵対的な関係にはなかなかなれないのかもしれない。
特に2014年のクーデターにより、現在のプラユット政権になってからはタイと中国との友好関係は深まった。このことは以前、本サイトで「南シナ海防衛、ASEANが海軍力を増強する背景」と題して書いたコラム記事で述べたが、当時アメリカを中心とする民主主義諸国がこのクーデターを非難したことが逆効果となり、タイ政府が中国側にすり寄って行く結果となり、ますます友好関係が強力になったのである。
しかも、今回のコロナ禍にあって、ワクチン不足に悩むタイ政府は中国政府から有償無償合わせてシノバックのワクチン、600万接種分もの供給を受け、非常に助かっているのも事実だ。
ただし、筆者の知るところでは、タイ政府はこの内550万接種分については結構高い代金をちゃんと払って購入しているし、全部無償贈与を受けているわけではない。
(訳:5月14日の今日、中国政府がタイのために寄贈したシノバックのワクチン、50万接種分がバンコクに到着しました。シノバックは今すぐに接種できる最高のワクチンであり、中国のワクチンはこれからもタイがコロナウイルスの感染爆発と戦うのを助けます)
ちなみに、この写真はバンコクの中国大使館がそのFacebookで、シノバックのワクチン、50万接種分を無償で送った時の写真を載せ、これ見よがしに中国はタイの味方だと宣伝したものである。
これに対し、2千にも及ぶ“いいね!”や400以上の“シェア”ボタンが押され、タイ語でありがとうを意味する“コプクンクラップ”や、中国は心が暖かい、を意味する“ジャイディー”というメッセージが何百とコメント欄に寄せられたのであり、中国のワクチン外交は確かにタイでも成功しているように見える。
インドシナ半島5カ国の対中姿勢
ところで、これらインドシナ半島5か国は中国にとってお膝下ともいえる国々であり、中国政府がワクチン外交を特に積極的に展開してきているのは理解できる。
しかし、BBCニュース・タイはその特集記事の中で、カンボジアの学者のレポートを引用し、実は中国政府は、この5か国を戦略的信用レベルを基に次の3つにグループ分けしているというのである。
- 親中:カンボジア、ラオス
- 中庸:タイ、ミャンマー
- 警戒:ベトナム
すなわち、カンボジアとラオスは完全に中国礼賛の親中国家で、彼らにとってワクチンを供与してくれる中国はまさに英雄であり、中国政府も両国を信頼できるパートナー国家とみなしている。
しかし、意外にもタイとミャンマーに関しては、完全に中国を信用しているというわけではなく、今も一定の距離を置いていると中国政府は見ているのである。
しかもタイについては、BBCも以下の例を挙げて、政府と国民の間にはさらに温度差があると指摘している。
タイのリーダー(プラユット首相)は、中国から既にシノバックを購入と寄贈で合わせて600万接種分も受取っていることから、今回のコロナ禍が終われば、タイと中国の信頼関係はさらに強まるであろうと伝えている。
しかし、一般国民の多くはソーシャルメディア等で中国のワクチンに対する不信感を訴えていて、接種後の副作用に対する不安などからシノバックワクチン接種にも消極的で、政府の計画通りにはワクチン接種が進んでいないのである。(BBCニュース・タイ)
一方、ベトナム政府は南シナ海の領有権を巡って中国と対立していることや、ベトナム国民の嫌中意識から、中国からは今もワクチンを一切受け取っておらず、中国政府もこの5か国で最も信頼関係が薄い国と見ている。(注:日本政府が最近、台湾に続いてベトナムにもワクチンを無償で提供しようとしているが、このベトナムの中国への対立姿勢を援護する意味もあるはずである)
すなわち、タイ、ミャンマー、ベトナムにとって中国は少なくとも英雄ではないということであり、中国がワクチン外交で犯罪者から英雄になったというのはいささか大袈裟なのである。
タイとミャンマーには戦狼外交ができない中国
2020年にコロナでタイ経済が受けたダメージはGDPがマイナス6.1%と、これら5カ国中最悪であった。そして、今も観光地などでは失業者が溢れているもかかわらず、なぜかタイ国民の間では嫌中意識というのはあまり感じられない。
また、今回のようにコロナウイルスが武漢ウイルス研究所から出たというニュースもあまり注目されず、タイ国民には中国がコロナを世界にばら撒いた犯罪者という意識もないようで、筆者から見ればタイ人は中国に対して非常に寛容に思える。
一方、欧米諸国を中心とする中国包囲網が広がる中、中国が何としても避けたいのは、お膝下であるインドシナ半島のタイとミャンマーまでが、同じアセアン諸国で南シナ海の領有権を巡って中国と真っ向から対立する海洋国家のフィリピンやマレーシア、インドネシアの側につくことであり、その結果、中国は東南アジアでほぼ四面楚歌の状態になってしまうのである。
そして、BBCが引用したこのカンボジアの学者は以下のように締めくくっている。
中国のワクチン外交は成功しているが、必ずしも100%成功というわけではない。というのも、いくつかの国は中国政府が善意から周辺国を助けようとしているのではなく、本当は中国の海外戦略の一環にすぎないと知っているからである。
従って、もし中国が将来、これらの国に無理な圧力をかけてきた場合、特に両国間の国境を変更しようとする場合など、中国は予想外の反撃に遭う可能性がある。
今の状況で中国政府はお得意の戦狼外交とやらでタイとミャンマーを抑え込むことはできないのである。
一方、かつてその外交手腕で欧米列強の植民地になることを回避してきたタイである。今のタイ政府も中国の手の内を読んで、用心深く中庸を行くその戦略で中国の思い通りにさせない手腕を望むところである。