自由というもの

が環境を作るか、環境が人を作るかということがよく問題にされるが、確かに人が環境を作る。しかし環境が又人を作る。と境とは相俟って自由自在に変化してゆく。境が人を作るということに捉われてしまえば、人間は単なる物、機械になってしまう。自主性・主体性・自由というものは何もない。」

上記は嘗て「今日の安岡正篤(210)」としてTwitterで御紹介した安岡先生の言葉です。また先生は続けられて次のように言われています「は境を作るからして、そこに人間の人間たるゆえんがある、自由というものがある。即ち主体性・創造性というものがある。だから人物が偉大であればあるほど、立派な境を作る。人間が出来ないというと境に支配される。」

私は、自由こそが此の人類社会に進歩を齎してきたものだと捉えています。自由が阻害されて行くと畢竟(ひっきょう)、一部の権力階級に全てが牛耳られ、そこに進歩は無くなります。例えば第二次大戦後、米ソ対立下で東のブロックに入っていた国々には、正に自由というものが無かったわけです。

私は、未だ東西ドイツに垣根がある時代から何度か東ベルリンを訪れた記憶がありますが、印象として残っているのは町全体が異臭を放っていたことです。それは戦前から使用されていた下水道がそのまま使われ、社会インフラが全く整備されていないことに起因していました。当時全くの退歩以外の何ものでもないと感じられ、私の慶應義塾大学経済学部の恩師・気賀健三博士が、「共産主義とは資本主義から資本主義に至る苦難の歴史である」と話されていたのを思い出した瞬間でした。

また英国ケンブリッジ大学留学時、私は北イタリアから共産圏のユーゴスラビアに車で入国したこともありますが、高速道路からデコボコの土の道路になり、コンクリートの電柱から曲がった木材の電柱になる等、光景が一変したことを鮮明に覚えています。車中から見える人々の顔にも明るさが無いように感じられて、自由が抑圧されると此の様な有り様になるのかと思いました。

レーニンやスターリンあるいはトロツキー達は、革命によってソビエトを創りましたが、その結果世の中は寧ろ退歩し悪くなりました。例えば、所謂「神秘主義…人智の及ばない事物が存在するという考え」に基づき共産主義思想を宗教として分析し批判したニコライ・ベルジャーエフ(1874年-1948年)というロシアの哲学者がいます。彼は、人間の「精神的発達」と「個」の確立を社会的進歩の概念と接合し、進歩を可能にする根元は、「人間的個の内的な精神的創造としての自由」だとしました。従って革命だけでは新しい世界、進歩した世界には至らないわけです。

古代中国の有名な兵法書『六韜(りくとう)』に、「天下は一人(いちにん)の天下にあらず乃(すなわ)ち天下の天下なり」(文師)という言葉があります。安岡先生が言われている通り、「人と境とは相俟って自由自在に変化してゆく。(中略)人は境を作るからして、そこに人間の人間たるゆえんがある、自由というものがある。即ち主体性・創造性というものがある」のです。自由というものは結局、きちっと主体性を維持する中で出てきます。また自由だからこそ、創造性が発揮できるわけです。そして自由だからこそ、競争が起こり社会が進歩するのであります。

最後に、安岡正篤著『知名と立命』より次の言葉を御紹介し、本ブログの締めと致します「人類一切の進歩とか文明・文化というものは、これは人が人の内面生活に返る――自分が自分に返る――という、したがってどうしても個人個人の心を通じて初めて発達するのである。言い換えれば、個人の偉大さというものの上に、社会のあるいは人類の一切がかかっているのである。」


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年6月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。