ステイホームという名の自宅流刑:人間らしさを取戻せ

潮 匡人

ようやく「緊急事態宣言」が解除される(沖縄県を除く)。だが、手放しで喜ぶのは、まだ早い。この間、私達は「不要不急の外出自粛」という名の〝刑罰〞を受けてきた。昨年来のコロナ騒動を受け大増刷されミリオンセラーとなった、カミュの古典的名著『ペスト』(新潮文庫)は、都知事らが「ステイホーム」と呼んだ措置を「自宅への流刑であった」と描く。

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その他、改めて読むと、コロナ騒動を想起させる記述に暇がない。

「お役所なんて当てにはなりませんよ。てんで、人の話を理解できるような連中じゃないんだから」

そのとおり。古今東西、お役所の体質は変わらない。以下の記述もペストをコロナと読み替えたい。

「あの連中がよくいってますよね ーー ペストが終わったらこうしよう、ペストが終わったらああしようなんて……。彼らは自分でわざわざ生活を暗くしているんですよ」
「過去の生活は一挙に回復されはしないだろうし、破壊するのは再建するよりも容易である」

以下の記述も示唆に富む。

「この病を終息させるためには、もしそれが自然に終息しないとしたら、はっきり法律によって規定された重大な予防措置を適応しなければならぬ」

6月21日以降、東京や大阪など7都道府県は「まん延防止等重点措置」に移行する。とはいえ「緊急事態宣言」よりも緩い措置なのだ。「重大な予防措置」からは、ほど遠い。

しかも、相変わらずの中途半端。飲食店に対する営業時短要請は今後も続く。酒類の提供も「感染状況に応じて知事の判断で(提供を)行わないよう要請する」ときた。これでは居酒屋やバーにとって、死刑宣告に等しい。

さらに、イベントの開催制限も続く。飲食に加え、文化や芸術も瀕死状態だ。

そもそも、私達の人生は「不要不急」で成り立っている。それがなければ、ただの生存であり、人生とは呼べない。「緊急事態宣言」や「まん延防止等重点措置」は、私達の生活から〝人間らしさ〞を奪った。

広く知られたように、人間(ヒト)だけに白目がある。その恩恵により、黒目を動かしアイコンタクトできる。リモート会議が案外、疲れるのは、それが叶わないからでもある。目は口ほどにものを言う。人間はそうして意思疎通を図り、助けあい、共同体を形成してきた。「外出自粛」、「ステイホーム」という名の「自宅への流刑」は、その根本を揺るがした。

ハムレットなら、こう叫ぶに違いない。

「寝て食うだけ、生涯それしか仕事がないとなったら、人間とは一体なんだ? 畜生とどこが違う」(シェイクスピア著・新潮文庫)

そう訳した福田恆存は『人間不在の防衛論議』(新潮社)を憂えたが、令和日本は「人間不在のコロナ論議」に終始した。失われたものは大きい。

政府や自治体、専門家やメディアが発したメッセージは「命を守る」という一点に留まった。やがて「命と経済を守る」と言い換えられるようになったが、それとて、経済を守ることで命を守るというロジックにすぎない。この間、「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」(三島由紀夫)と叫んだ政治家も、言論人もいなかった。伝統、文化、芸術など、本来わが国が武力を行使してでも守るべき、かけがえのない価値がないがしろにされてきた。

みたび、福田恆存を借りよう。

私が戦争末期に体験した一つの実感をお話ししませう。昭和二十年の春、東京の下町が次々に空襲を受けたころのことです。ある日、私は上野池端に焼け残った一画を見出し、そのなかの見すぼらしいそば屋の建物に深い愛着をおぼえたことがあります。(中略)私はその気持を(中略)もっと立派な「文化財」的建築にたいする気持とくらべてみたものです。をかしなことに、そのときの私には、法隆寺や桂離宮よりも、そのそば屋が焼けてしまふことのほうがさびしいと感ぜられたものです。/それはおそらくかういふことでせう。そば屋の建物やそれを含んだ家並は、私にとつて風物と化し、善かれ悪しかれ、私の文化を形づくつてゐて、(中略)それに反して、「文化財」的建築は私にとつて美であつて、文化ではなかつた。私の生き方のなかに取りこまれてはゐなかつたのです。
(「伝統にたいする心構」・初出「日本文化研究」第8巻・昭和35年刊)

福田は戦争末期、「幾多の文化的な遺産と同列に、場末の廃業したそばや、裸にされた外路樹を愛惜する」とも書いた(「同時代の意義」・初出「新潮」昭和20年2月号)。

このままでは、居酒屋やバーに加え、「見すぼらしいそば屋」も廃業に追い込まれる。いや、ノンアル営業すればよいではないか、……そうお考えの読者には、池波正太郎の至言を進呈しよう。

「蕎麦やへ入ったからには、一本の酒ものまずに出て来ることは、先ずないといってよい。のまぬくらいなら、蕎麦やへは入らぬ」(『散歩のとき何か食べたくなって』新潮文庫)

蕎麦屋だけではない。このままでは、寿司屋も、天ぷら屋も、町中華も消滅しかねない。そうした飲食店が居並ぶ商店街は「私にとつて風物と化し、善かれ悪しかれ、私の文化を形づくつて」きた。それを奪う権利は、政府にも、もちろん自治体にもない。

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私達はいまこそ、人間らしさを取り戻すべきではないだろうか。少なくとも私は、「新しい日常」なんか、要らない。「場末の廃業したそば」への愛惜だけが募る。