先後を知れば道に近し

今年2月、「人間力・仕事力を高めるWEB chichi」に『没後120年に学ぶ「独立自尊」の精神——福澤諭吉・リアリストの実像』と題された記事がありました。その中の『物事の優先順位、「事の軽重」を怜悧に見極める』で、『時事小言』(1881年出版)「緒言」より次の福澤の言葉が引用されています。

――俚話に、青螺が殻中に収縮して愉快安堵なりと思い、その安心の最中に忽ち殻外の喧嘩異常なるを聞き、窃かに頭を伸ばして四方を窺えば、豈計らんや身は既にその殻と共に魚市の俎上に在りと云うことあり。国は人民の殻なり。その維持保護を忘却して可ならんや。

拓殖大学顧問・渡辺利夫氏に拠れば、之は「国家とは生身の青螺の殻のようなものであり、殻が外敵に壊されてしまえば、そもそも国民の生命や財産の守護などできない。近年の厳しい国際情勢の中で、その現実を直視することなく、民権と国会開設について騒いでいるだけでは国家の存立自体が危うい。青螺の比喩を巧みに用いて、そう福澤は警鐘を鳴らしている」とのことです。

此の「事の軽重」に関しては、例えば『大学』の「経一章」に、「物に本末あり、事に終始あり。先後する所を知れば、則ち道に近し…物事には、根本と末節があり、始めと終わりがある。何が根本で何から始めるべきか、そのことをよく心得てかかれば、成果も大いに上がるであろう」とあります。

人間、どうでも良い事柄に対し一生懸命になった結果として、人との不和が生じたりもします。ですから我々は日々、仕様もない事柄で人と争わない為にも、それが物事の枝葉末節かどうかを的確に判断して行かねばなりません。そしてその為には物事の根本は何かというふうに、常日頃より考え方のトレーニングをし続けなければいけません。

「兎角人間というものは手っ取り早く安易にということが先に立って、その為に目先にとらえられたり一面からしか判断しなかったり或は枝葉末節にこだわったりというようなことで物事の本質を見失いがちであります。これでは本当の結論は出てきません」とは、安岡正篤先生のです。

私が私淑する先生の言葉を借りて言えば、「思考の三原則…枝葉末節ではなく根本を見る/中長期的な視点を持つ/多面的に見る」に則って物事を考える等、常に自ら様々を心得て勉強し続けて行く中で初めて、「事の軽重」といったものが朧気ながら分かってくるのだと思います。

物事の本質を見極めることは、一朝一夕には出来ません。根本的には上記3つの側面に拠って物事を捉えるべく、きちんとした思考習慣を自分自身のものにして行かねばなりません。そしてそれを身に付けた上に「先後を知れば道に近し」となるのだろうと思います。自分が始終努力し続けなければその道には到底到達できないのです。

先述の「経一章」でも言及されている通り、「終わり」だけでなく「始め」というものも大事であります。「有終の美」という言葉は一般的には「最後」や「結果」に重きが置かれているように思いますが、『易経』風に言うと『「終わりあり(有終)」とは初志を変えず、一貫して物事を成し遂げ、終わりを全うすること』というように「始め」もあれば「終わり」もあるとして、要するに「変わらない」といった意味になります。

「始め」とは「発心」「決心」の世界であり、一旦決心した事柄を「相続心」を持って最後までやり遂げることが非常に重要です。そしてその為には自分の本質というものを自分自身できちっと知り、「恒心…常に定まったぶれない正しい心」を保つということが肝要です。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年6月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。