テヘランで観光案内の仕事をしている若いイラン女性が、「私は投票には行かない。誰が当選するか既に分かっている大統領選に投票する意味を感じないからだ」という。別の若い青年は、「選挙の結果は決まっているが、それでも投票には行く。わが国が変わるチャンスはまだ到来していないかもしれないが、国民の一人として諦めることはできない」と語った。
イラン大統領選直前、ドイツのTV放送がイランの首都テヘランで現地の声を拾って報じていた。18日の投票の結果、最初の若い女性が言っていたように、ロウハ二大統領の後任には保守強硬派のイブラヒム・ライシ司法府代表(60)が当選した。欧米メディアは、「強硬派が大統領に就くのは2005~13年のアハマディネジャド前政権以来だ。イランの政治は今後、一層強硬となることが予想される」という論評を付けて報じていた。ロウハ二大統領の任期は8月3日に終わる。
ライシ師は2017年の大統領選でロウハ二現大統領に敗れたが、今回は候補者の資格を調査する護憲評議会がライバル候補者を次々と失格にしたことで、改革派は候補者がなくなり、ライシ師にとっては楽な選挙戦だった。
イラン大統領選の結果はサプライズではないが、看過できない点は1979年のイラン革命以後の大統領戦で史上最低の投票率だったことだ。同国内務省が19日公表したところによると、有権者数は約5930万人、そのうち、投票した数は2890万人。そのうち、ライシ師は1790万票を獲得(約62%)して当選した。投票率は約48・8%だ。前回投票率比で20%減だ。首都テヘランの投票率はもっと低かった。白紙で投票する有権者も多かったという。
先の若い女性は、「自分はイランから出て、海外で職を探す考えだ」という。彼女は決して特別な女性ではない。高等教育を受けた若いイラン女性の海外脱出は久しく続いている。イランでは大学教育を受けるのは男性より女性が多い。男性は外で働き、女性は大学に行って学び、その後、結婚して家事に専念する、というのがオーソドックスなプロセスだ。その人生の枠組みから離れ、新しい大地に出かける若者は絶えないのだ。
ちなみに、海外脱出希望組で人気が最も高い移住先は米国だ。イランの精神的最高指導者ハメイ二師が「悪魔の国」と酷評する米国に多くのイランの若者たちが憧れるのだ。当方が知っていたイランのジャーナリストはウィーンの国連で数年間イラン国営IRNA通信の助手をしていたが、米国移住した親戚を頼って米国に行ってしまった。
ところで、イランの最高指導者はハメネイ師で、大統領は名誉職ではないが、最後の意思決定の権限は聖職者のハメネイ師の手にある。核開発問題でもロウハ二師が欧米側の圧力に譲歩する姿勢を示した時、ハメネイ師から圧力を受けたイラン議会は昨年12月2日、核開発を加速することを政府に義務づけた新法を可決している。最高指導者が変わらない限り、誰が大統領に選出されようと大きな変化は期待できない。ただ、ライシ師が大統領に就任することで、ハメネイ師との意思疎通はこれまで以上にスムーズになるから、イランの政治決定はこれまでより迅速に進められることが予想されるわけだ。
国際原子力機関(IAEA)の本部があるウィーンでバイデン政権発足後、イランと米国間で核合意の今後について交渉が続けられている。イラン核協議は国連常任理事国5カ国にドイツを加えた6カ国とイランとの間で13年間続けられた末、2015年7月に包括的共同行動計画(JCPOA)が締結されたが、トランプ米大統領が2018年5月8日、「イランの核合意は不十分」として離脱を表明。バイデン氏が大統領に就任後、核合意への復帰の意思を表明。それに対し、イラン側は、「まず、対イラン制裁の全面的解除を実施すべきだ」と主張、米イラン間で激しい駆け引きが行われている。イラン大統領選で強硬派のライシ師が選出されたことから、両国間の交渉が困難となるのではないか、といった声は既に聞かれる。
問題は、ライシ師が人権蹂躙問題で欧州連合(EU)と米国の制裁リストに掲載されている人物だということだ。そのような指導者がEUや米国とどのような交渉ができるか、といった疑問が出てくる(「イラン保守派勢力の暴発に警戒を!」2021年2月20日参考)。
ライシ師は当選直後、「国民経済の回復に全力で取り組みたい」と述べていた。イランの国民経済は厳しい。米政府の制裁再発動を受け、通貨リアルは米ドルに対し、その価値を大きく失う一方、国内ではロウハニ政権への批判だけではなく、精神的指導者ハメネイ師への批判まで飛び出すなど、ホメイニ師主導のイラン革命以来、同国は最大の危機に陥っている。そこに中国発の新型コロナウイルスの感染が広がり、国民は医療品を手に入れることすら難しくなっている。国民の不満がいつ暴発してもおかしくない状況だ。今回投票を棄権した多くの国民は政治に無関心になってきている。ライシ師が国民経済を早急に再生しない限り、イランの国力は衰退してしまうだろう。これがイランの現状だ。核開発やイスラム過激派テロ組織への支援に腐心している時ではないのだ(「イラン当局が解決できない国内事情」2020年12月2日参考)。
ライシ師にロシアのプーチン大統領、トルコのエルドアン大統領、そしてシリアのアサド大統領から当選の祝電が届いたが、新大統領の運命は彼らが握っているのではなく、イラン核合意の行方、具体的には米国の動向にかかっている。その点ではライシ師主導のイランは何も変わっていない。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年6月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。