民主的判断の行方

重そうな話題ですが、なるべく平たく、そして現代の民主的判断について個人的に気になることを皆様と一緒に考えられたらと思います。もちろん、答えはありません。しかし、現状を認識し、議論することは大事だと思っています。

私が小学生の時、モノを決めるのに多数決ということを摺り込まれました。クラスで意見が分かれたとき、最後、挙手なりをして数の多い案を選ぶというものです。この考え方は現代社会でも基本であると思いますが、様々な意見から選ぶ段階で自分が無知であったり、どうしてよいかわからない時、そもそも興味がない決めごとの際、どうされていましたか?案外、多勢に無勢、勝ち馬に乗れ、ではなかったでしょうか?つまり、多数決の原理とは必ずしも内容で判断されるというよりそれを主張している人、そのプレゼンのテクニック、目先の飴、形成される世論や場の雰囲気に流されることは多いのです。

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では小学校の挙手による選挙の最大の難点は何でしょうか?それは誰が誰に投票したか、分かることです。先生が採決を取る際、先陣を切って手を挙げる人は少なく、一拍置いて周りをきょろきょろしながらそろそろと手を上げる生徒さんも多かったと思います。つまり、心底、明白な考えをもってそれを信念としている人は案外少なかったりするのです。

では大人の世界はどうでしょうか?例えばかつて小泉純一郎氏が主婦層から絶大なる人気があったのはなぜでしょうか?氏の主張というより独身で歯切れの良い言動、自民党議員ですらきりきり舞いさせ、勧善懲悪のヒーローのようなイメージを国民に植え付け、メディアがそれを面白おかしく報道し、「素敵よね」「そうよねぇ」「応援しますわ」の声の輪になったと言ったら男性のひがみと非難されるかもしれませんが、否定できない事実でもあります。

東京都の知事選に於いて絶対不可欠なもの。それは知名度であります。どこの馬の骨かわからない人物より仮に芸能人でもテレビにおなじみの人でも小説家でも評論家でもとにかく名が知れていることが第一なのです。これはもちろん一般の選挙でも同じ傾向があります。昔から芸能界から転身する議員さんは一定数いたのは政党政治において名が売れているだけで黙っていても得票数が得られるある一種のシード権確保になるのです。

民主的社会において物事を決めるには直接民主主義と間接民主主義があります。直接民主主義は小学校でモノを決める際に生徒全員が参加し、その判断を直接に下すのが好例です。一方、間接民主主義の場合、政治家や市民の代表者を選出し、その人に判断を託す、という発想です。

日本でも村社会の時代から現代に至るまで「議長に一任」という決め方があります。これは関係者が議論をしつくし、その意見をその集団の代表者に「では、あとはよろしく頼む」と託す考え方であり、間接民主主義の一つです。

ではここからが議論です。かつては議論をする際に選択肢は極めて少なく、AかBかといった具合で「どちらか選べと言われれば…」だったと思います。ところがここにきて様々な意見を尊重する時代となり、いろいろな人や団体が様々なことを言うため、まとまらない時代になったとも言われます。

バイデン大統領でさえ「我々の民主主義はモノを決めるには時間がかかる」と述べていますが、その発言の裏側とは意見調整が大変でそれぞれのインタレストを最大限盛り込もうという八方美人的決断を求められるため、甘くもしょっぱくも酸っぱくも辛くもないマイルドで中庸な判断になりがちだということでしょう。自民党の政策は中道右派と言われますが、私にはより中道化しているように見て取れます。

もしも地球上全てが同じ思想の下、同じスピードで展開していればよいのですが、世界には実に様々な体制があり、その相違が時として大きなギャップを生み出すことがあります。中国や北朝鮮といった体制的な問題、シリアやアフガニスタンといった急進的思想が支配する国、イスラエルやイランのように宗教的絶対観があるケースなど様々です。

日本国内だけ見ても様々なイシューで世論が完全に分裂していることは増えています。憲法改正、原発、コロナ対策、五輪、自動車のEV化…。これらはこのブログで時折触れる内容ですが、それだけでも皆様のご意見は決して一つの形にならないどころか、妥協点すら見つからない状況であります。つまり調整してどうこうなるものではなく、まるで折り合いがつかないケースすら出てきており、「停滞」と言ってもよい状況が生まれています。

民主的判断の行方、という今日のタイトルの後ろには議論万歳、だけど最終的には決めるのか、決めないのか、そして決める場合、強い反対派にとって「苦渋の結果でも我慢せよ」が今の時代でも理解されるのか、であります。最近のトーンとして民主主義という傘の下、自分の意見が何でも通ると勘違いしている節も感じないことはありません。

日本は特に民が議論をするという社会が歴史的に十分に形成されてきませんでした。江戸時代までは士農工商といった身分制度がその議論を阻み、明治以降は国民が一体感を持って一つの方向に向かい、異種の思想は特高警察がそれを潰しました。最後は敗戦を迎えるものの、その後は経済復興という意味で再び一枚岩の日本が形成され、所得が倍増し、一億総中流社会が生まれます。バブル経済は一つの頂点となり、そこから大きな試練の時代となりますが、90年代のインターネット普及がマイノリティの意見を吸い上げる機会を作り、近年、それらの声や意見がリアルワールドでもカミングアウトするようになったというのが私の理解です。

そもそも民主的判断は全員の意見を満足させるものではなかったのです。小学校の多数決による決定では一定数の人たちの意見は通らなかったのです。それはやむを得ない結果だと諦めていたのが今は社会思想と立ち位置の中道化で様々なことが何らかの形で反映される社会になりました。例えば多数決の原理で一方が勝ち、一方が負けるのではなく、妥協点を作るんです。これは集合の公約数的ウィンウィンの方式でありますが、政策として進めるべき方向性がぶれ、スピード感がなく、骨太の「べき論」が薄くなったというのが私の感じるところです。

さて、皆様はどうお考えでしょうか?ご意見、お待ちしております。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年6月22日の記事より転載させていただきました。