中国の話題を振る際、書き手が中国にどのような気持ちを持っているのかそのバイアス次第で良くも悪くも書くことができます。私はビジネスマンとして物事の判断をする際に極力色目をつけずに自分なりにいろいろな事実をテーブルの上に並べ、自分で考えをまとめるようにしています。さもないと受け売りになり、自己の考察と判断能力が薄れてしまいます。
さて、中国は共産党創設100周年を7月1日に迎えます。実質的には戦後、中国が国民党との長い戦いを制し、独立した1949年10月1日から本格的始動を始めたとみてよいでしょう。ところが独立後の第一次中国は毛沢東氏の絶対権力と文化大革命による大混乱、四人組の終焉という地に足がつかない体制となりました。
もちろん、毛沢東氏の中国は特別の意味合いがありますが、国が向かうべき行方について戦前、戦中の混乱を経て共産主義の功罪を含め落ち着きどころを探し続けました。
第二次中国は78年からの鄧小平下の開放路線体制であります。ここで大きな点は文革を含む毛沢東主義に多少なりとも反省を示したことです。共産主義の特徴である過去の否定と自己反省がここでも継承されます。
97年に鄧小平氏が亡くなると基本的に鄧小平路線を継ぐ体制ができますが、それまでの体制の模索から路線継続を主眼としたものとなり、小粒になった感もありました。
ところが、第三次中国として2012年に始まる習近平氏率いる体制が始まり、大国として中国が地球儀ベースで暴れ始めたというのが極めて単純化した私の大局観であります。
では中国は現在の経済発展や共産主義を前提とした強固な社会と世界の中で圧倒的勢力を今後も維持することは可能なのでしょうか?私の結論から言うとNOであります。
理由は共産党そのものにあるのではありません。中国人民の立ち位置と経済的背景にあります。中国の経済的成長は著しく、人民服、自転車の時代から世界で最も高価なものが飛ぶように売れる西欧的消費社会を具現化しまいました。これは共産主義本来の富の分配の観点とは全く相違し、国民は富と成功を求めるようになります。これは国民が社会からの離脱を意味し、国家の支えよりも自立することを求め、そこに桃源郷を感じるようになります。
戦時中、日本で「お国のために」は当たり前、その後、「会社のために」でしたが今では個人主義が跋扈しているのと同じ、中国でも全く同様のことが起きています。これは社会に対する無関心化と無気力化が生じやすくなります。
例えば中国が本気で戦争をするとすれば最新鋭の兵器に頼ることはできますが、大規模な地上戦はもうできないでしょう。理由は「いくさ」をしたことがなければいくら筋肉を鍛えても極限のメンタル状態を凌げないからです。(同じことは日本を含む多くの国でも同じ事ですが。)
同様に人口減が都市部を中心に明白に表れてきています。私は「種の保存」に基づく人間社会の最大効率化が進んでいるだけで、極めてナチュラルな人口減少だと思っており、今後、国内経済はより成熟化し、日本の失われた20年と同様の「経済の下落しか知らない世代」が世相を映すかもしれません。
唯一のチャンスは貧しい新興国とのタイアップをすすめ、協調関係を結ぶ方策がありますが、中華思想は常に上下関係を伴い、自分たちが偉いという立場にありますので社会がよりフラットになり、リベラル化が地球儀ベースで進むことを踏まえれば「上から目線」は受け入れられなくなる公算は大きいと思います。
中国を虎といった表現をしますが、私はいずれ象になるのだろうと思っています。図体はデカいけれど動きが鈍く、危害もあまり加えられず、強大な自分を支えるのが精いっぱいな国家になるであろうとみています。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年6月30日の記事より転載させていただきました。